吉右衛門のダンディズム
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昨日、接骨院の待合室で月刊誌の「致知」が1年分並んでいて、先月号のヤツに桂歌丸さんと中村吉右衛門さんの対談が載っていた。
接骨院は、一昨年、キックボクシングのための筋トレで左肩を脱臼したのを治してもらったのが縁で、それから毎週一回は通って筋骨の体調管理をしてもらっている。
本当の吉右衛門さん自身はそれほどでもないと思うのだが、これが長谷川平蔵を演じるとダンディズムの極致を醸し出す。
なぜ、それほどダンディでもない吉右衛門さんが(吉右衛門さん、失礼!)、長谷川平蔵を演じるとダンディに変身するのか?
むかしテレビで吉右衛門の長谷川平蔵をやってたころ、おれはまだ若造だったが、そのダンディさに惹かれて原作の池波正太郎の「鬼平犯科帳」を全巻読んだ。
原作を読むとわかるが、原作者の池波正太郎が真底ダンディなのだ。
池波のダンディズムは人を変えようとしないことだと思う。人を変えようとしても変わらない。変えられるのは自分だけだ。
だから盗人は悪いとか許せないとかそんなよけいなことは考えない。みんな貧しさと差別の中で盗人に落ちたのだ。いいも悪いもない。
ありのままに受け入れる。
冗談も交わすし、怒るべきことは真剣に怒る。
そして獄門にかけるべきものは獄門にかけ、密偵として使える者は密偵として使う。密偵として使っている元盗人と真の友情が生まれることもある。家族同然になった元盗人もいる。自分をただせば相手もただされる。
この姿勢は盗人に限らない。無宿人でも、女郎でも、ヤクザでも同じだ。
相手を変えようとしないのだから、すなわち相手に依存しないのだから、相手に左右されることもない。どんな試みにも動じることもない。去ろうとする者は追わない。
ただ自分の人生を仕事をツッぱりぬいて生きるのみだ。
吉右衛門さんは若いころ吉右衛門さんの親父の八代目松本幸四郎が同じく長谷川平蔵を演じてたのを見て、あそこは原作と違う、おれならこう演じる、といつも原作とにらめっこしながら見ていたそうだ。
そう、吉右衛門さんはダンディズムの極致である池波の原作を徹底的にマスターして受肉化していたのだ。
(この画像は拾い物。黄色の「格好良すぎ」の文字がついていた(笑))
ちょうどつい先月、浅草の池波正太郎記念文庫に寄ってみたのだが、
文庫内には池波の書斎が再現されていて、万年筆からデスクや調度品に至るまでダンディズムの一端を垣間見せていた。