鼓童・日本の魂よ甦れ
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- 禅とアート…日本の和の魂
一昨日、太鼓の鼓童の舞台を観てきた。
圧巻は提灯を張り巡らしたやぐら演台の大太鼓。
まず語り部を思わせる歌い手が登場し、舞台脇でゆったりと三坂の馬子唄を歌い語る。
その間に、しずかにゆっくり大太鼓のやぐら演台が登場し、舞台の中央に据えられる。
馬子唄が終わって歌い手が退場すると、
やぐら演台で大太鼓の表と裏に正座していたふんどし姿の2人の打ち手が立ち上がり、大太鼓の表と裏から静かに小さくバチを打ち込みはじめる。
ご存知のとおり、鼓童には指揮者はいない。
裏の打ち手の小さくリズミカルに打ち続けるバチの響きに合わせて、表の打ち手のバチがだんだん早くなり、やがて全身の筋肉を躍動させて全身全霊で激しくバチを打ち込む。
また表の打ち手が打ち込むバチの響きの波に合わせて、補完して、裏の打ち手もだんだん激しくバチを打ち込む。
互いに相方のバチ打ちに感応しながら見事な調和ができあがる。
これは打ち手が5人、10人と増えても同じだ。
みなお互いを慮り、時にはある打ち手の激しいバチ打ちに合わせて周りが補完し、時には別の打ち手のバチのリズムに合わせて補完し合い、助け合い、一つとなって演じ切る。
指揮者不要なのだ。
激しいバチさばきに聴き入りながら、これが日本人の和の魂なのだと思った。
6年前の東日本大震災の折、
家族を失い、家を失い、全てを失って悲しみと絶望のどん底に落とされながらも、それでも、日本人は互いに乏しい物資を分かち合い、助け合い、励まし合った。
だれか決まった指揮者がいたわけではない。
だれかに命令されたわけでもない。
ときにはある者が声をかけ、ときには別の者が率先し、そして全員が自主的に分かち合い、助け合い、励まし合った。
こういう姿は外国ではありえない。
外国では強い指揮者の命令系統が失われたとたんに、みんな暴徒と化し、弱肉強食の修羅場になってしまう。
中国なんかは国家の指導者たちが率先して賄賂で貯め込んだ資産を海外(主にアメリカ)に隠している。国家が修羅場に陥ったとき国民を見捨てて真っ先に逃げだすためだ。国家の政体からして自己中なのだ。
だから海外のジャーナリストたちは日本人のこの姿にびっくり仰天し、驚嘆して、日本人に惜しみない賞賛とエールを送った。彼らが日本人を大賞賛した記事を次々に書いたことは記憶に新しい。
しかし、じつは、これは94年前の大正時代の関東大震災のときも同じだったのだ。
指揮者不要。
誰に命令されなくとも、日本人は悲しみと絶望のどん底でも互いに分かち合い、助け合い、励まし合った。
このときも海外のジャーナリストたちは、外国では絶対にありえないこととして驚嘆し、日本人に賞賛とエールを送る記事を書いている。
世界で唯一と言えるこの日本人の和の性質はどこからきているのか?
これは日本人のDNAだ。
日本人の和の魂であるとしか言いようがないではないか。
そうだ、和魂だ。
鼓童よ、打ち手たちよ、
打って、打って、打って、打って、打ちまくれ!
我を忘れて打ち込め!
甦れ、日本の魂