フミヤス・サンタゲバラ クラブ

人間と世界を動かしている秘密と真相を勝手に書いていきます。 このブログには実在の政財界のフィクサー、実力者、著名な実業家、メスネコなどが登場します。

人類は進化する(7)三昧・自在のアセンション

 
 

常識も世間体もかなぐり捨てろ。三昧に踊れ。至福のときだ。
(徳島の阿波踊り
 
 
 
 
おれはキリスト教会は嫌いだ。
 
と、「人類は進化する(6)アセンション・荘厳な死」で書いたところ、
 
おれのガールフレンド(いつもの女性読者のみなさん(笑))から「キリスト教会と何かあったんですか?(^^)」という鋭い質問をいただいた。
 
 
 
じつはあったのです(笑)
 
 
おれは6年前、都内のキリスト教神学校に、他の生徒たちに違和感極まりないものを感じながらも1年近く聴講に通ったことがある。
 
ひとえに自分の聖書理解に誤謬がないか確認しようと思い立ったためだ。
 
 
 
なぜ6年前かというと、おれのボスで恩師でもあったK会長が亡くなったのが、その6年前だったからだ。
 
K会長はウチの企業グループ(世界中に50社)の創業オーナーであり、また田中角栄首相から森喜朗首相までの歴代内閣のフィクサーでもあった。
 
身長185cm、スマートで、数百万円の黒系のスーツをバリッと着こなし、銀座にもクラブを3軒所有し、運転手は空手8段の躾の行き届いた男だった。
 
会長はおれの実の親父と同い年だったこともあってよく飲みに連れて行ってくれたが、会長とおれの二人で黒のベンツから銀座の街に降り立つとマフィアと間違われることがあった。
 
事実、歴代総理も広域暴力団も会長には逆らわなかったのだから、ある意味マフィアと同じようなものだったかもしれない。
 
 
 
会長は小泉さんとは気が合わなかったので、以後は政界から距離を置いて、以降、亡くなるまでの10年間はそのエネルギーのすべてを事業の拡大のために集中した。
 
会長がおれを代表とする投資会社を設立し(これが今のおれの会社)、おれを会長の片腕に育てようとしてくれたのもこのころのことだ。
 
とにかく会長ほどの理解力、洞察力、決断力、胆力などを備えた男は他に存在しないほどだったから、その事業にかけるエネルギーと執念、熟練さは圧倒的であった。
 
 
 
そして6年前、そのK会長が亡くなった。
 
グループの二代目オーナー(会長の次男でおれと同世代)の意向で、後にグループ本部を移転するまでのあいだおれが会長室を使わせてもらっていたが、
 
そのとき、おれはこの機会に自分の聖書研究に誤謬がないか確認しようと思い立ったのだ。
 
禅の最高峰の恩師はいたが、聖書にはこれはという恩師がいなかったのだ。会長が亡くなって多少時間に余裕ができたこともある(笑)
 
 
 
おれが聴講に通ったキリスト教神学校では、
 
なかには「?」のつく講師もいたが、さすがに名を馳せた尾山令仁先生、岸義紘先生(学長・当時)、中野雄一郎先生(学部長・当時)、金山良雄先生(理事長)の講義は見事だった。
 
おれも仕事の後の夜間学校なので疲れ切っていることが多かったが、魂を揺さぶられ、目が覚めるような講義や研究に触れ、個人的にも多々ご指導いただいた。
 
そのころは夕方5~6時の間に仕事の区切りをつけて神学校に直行し、講義が終わると銀座のクラブの接待に駆けつけるなんてことも多々あった(笑)
 
 
 
と、ここまではよかったのだが、
 
その神学校に関係する教会があって、すすめられて日曜日に顔を出してみた。
 
 
 
それで日曜日、教会初日、
 
礼拝が終わると、
 
さっそくやってきました。おれの席に、おれより一世代上のおじさんたち、Aさん、Bさん、Cさん。
 
Aさん「ふみやすさん、はじめまして(^^)」
 
Bさん「ふみやすさん、ようこそいらっしゃいました(^^)」
 
Cさん「ふみやすさん、さっそくですがヨシュア会に参加しませんか?(^^)」
 
ふみ「なにやるんですか?」
 
Aさん「みんなでカレーライスを作るんです(^^)」
 
ふみ「カレーライス作ってどうするんですか?」
 
Bさん「みんなで食べるんですよ(笑)。」
 
Cさん「楽しいですよ~(笑)」
 
 
 
・・・これだから馴染めない(笑)
 
 
第一にヨシュア記というのは、ヨシュアイスラエル12軍団を率いてカナンに攻め込んで、多くの味方の犠牲を出しながらも敵を次々にせん滅し、その屍の上にイスラエル王国を建国していく歴史書だ。敵も味方も死に物狂いの話なのだ。
 
カレーライスとは関係ない。
 
 
 
それにヨシュア記というのは、つまり聖書というのは、むかし終わった話ではない。
 
ヨシュア記は現代にも続いて、現代人も売上と利益に追われ、債権債務に責められて毎日数万の会社が倒産し、毎日数千人の人が自殺している。育児をしながら働いている女性も大勢いるわけで、毎日が戦いではないか。保育園一つ探すにも必死だ。

エスはこうして苦しむ人類を愛し、債権債務(律法)を廃棄して新しい世界を創るためにこの世界に来た。ゲバラが社会を変えていったように、イエスは人間の魂を変えていく生命力である。イエスとともに戦うべき世界、改革すべき社会は山のようにある。
 
昼間からカレーライスを作ってる暇はない。
 
 
注!) カレーライスが悪いわけではない!
 
 
 
A、B、Cさん「ふみやすさん、如何ですか?(^^)」
 
A、B、Cさん「楽しいですよ~~~(^^)」
 
ふみ「カレーライスのために集まるよりも、被災者救援のために国政を動かすとか(当時は東日本大震災の直後だ)、そのために誰かを国会議員に立てるとか、新しい社会の仕組みを検討するとか、そういうことのほうが楽しくないですか?」
 
A、B、Cさん「えっ!?・・・・・・・・」
 
 
 
・・・というわけで、このキリスト教会には最初から馴染めなかった(笑)
 
 
 
もっと辛辣なことを言えば・・・あまり書きたくないが・・・、
 
Aさんは教会の役員であるにもかかわらず、自分で「私は卑怯者ですから」と自己申告する。最初は冗談だと思っていたが、本当にごく小さいことでも自分を守るために人に責任をかぶせ、人を犠牲にする。周りもあきらめていて距離を置いている。人を裏切っても毎週教会に来ていればキリストが守ってくれると考えているのだ。
 
この教会は多かれ少なかれ似たような人が揃っていたので、教会の人間関係がお互いにすこしも尊敬していないし信頼もしていない。その後Bさんはケンカして教会を辞めたという話を聞いた。
 
 
 
この世界は完全な愛の世界だ。
 
聖書ふうに言えば完璧な神が守っていてくれるのだから自分で自分を守る必要はない。聖書に書いてあるのは自分を守るのとは逆のことで、ゲバラのように自分を捨てて、ときには自分が犠牲となって隣人を守れ、それが愛だということである。
 
ちょうど当時は東日本大震災のあった年、まさに隣人のために働き、自ら犠牲になっていった大和魂の日本人たちが連日テレビで報道されているのだ。この日本人たちこそイエスと同じ精神ではないか。
 
ほんとは牧師がこういうことを身をもって示さなければいけないと思うが、身をもって示しているところを見たことがない。
 
他の教会も同様で、教会よりも、一般の日本人の方がイエスと聖書の精神に近いのだ。
 
 
・・・あまり書きたくなかったが書いてしまった(笑)
 
 
 
閑話休題
 
 
そういうことで教会は脇において、
 
上記の神学校の尾山先生や岸先生らは今いずれも80歳代だ。おれの実の親父や亡くなったK会長と同年配だ。とくに尾山先生は90歳になるのではないか。
 
おれは彼らのような人の心を揺さぶり目覚めさせる国宝のような研究者・探求者がいずれこの世を去っていくのはじつに勿体ないことだと思っていた。
 
しかしこの人たちの魂はイエス・キリストの魂(生命の木)に完全に共振していると思えるので、とすればイエスアセンション(次元上昇)に合わせて彼らも一緒にアセンションしていくのである。
 
むしろ彼らはこの世界に、すなわち神に、残された人生を安心しきって委ねながら、荘厳な死のアセンションを待ち望んでいるようにすら感じられる。
 
 
 
イエス・キリストとは昔の話ではない。
 
われわれ人間が五感を通して認識できる世界は四次元の範囲なので、一つの時間軸に縛られて、過去~現在~未来の順でしか認識できないが、
 
神の無次元の世界は時間軸が無数なので、過去も現在も未来も同時に存在する。というか自在に存在する。
 
イエス・キリストも自在に存在して、いま目の前でも、われわれ人間に生命の選択を迫っているのである。
 
 
 
禅の三昧(ざんまい)の境地というのは、四次元の肉体の中にありながら、魂が四次元の常識から離れ、神の無次元の世界に至る境地である。
 
いや、むしろ魂の故郷である神の無次元の世界に帰する境地であり、または神の無次元の世界におのずと立脚している境地である。
 
この三昧のときの魂の在り様が自在なのだ。
 
 
 
かつてNM法を確立した中山正和先生(故人)は、心の自在とは、脳のシナプスの結びつきが相互の因果関係をみな断ち切って相互に自由になっている状態であると看破した。
 
大脳生理学者のみなさん、禅を習得してこの問題に取り組んだら、いまならノーベル賞を取れますよ。
 
中山先生は3000年にわたって東洋人が探求してきた禅のシステムをついに大脳生理学と物理工学の見地から解明した。当時はノーベル賞の関係者が禅などの東洋思想を理解できなかったためにノミネートされなかったが、中山先生こそノーベル賞を超える研究者であった。
 
 
 
じつはこの三昧・自在の境地というのは誰もがちょくちょく体験している。
 
一流の職人がその技に打ち込んでいるとき、多くの場合その境地は三昧であり、魂は自在だ。それで神業としか思えない作品が生まれる。
 
これは一流の研究者、芸術家、スポーツ選手なども同じだ。それらの技に打ち込んでいるうちに自然に三昧・自在となって神業を発揮する。
 
 
 
また新米の職人や研究者、芸術家、スポーツ選手でもその技に打ち込んでいるとき、たまにこの境地となって技が前進する。
 
一般でも、子どもたちが一心不乱に遊んでいるとき、みんなで社会常識や世間体を忘れて踊っているとき、無我の境地で夢中で太鼓をたたいているとき、何かに熱中して没頭しているとき、われわれは偶然に、ある一瞬、三昧となり、魂は自在となる。
 
 
 
そしてそのときわれわれの魂は宇宙(神)とともにあって、神業を発揮し、あるいは神業の中にあって、同時に永遠の至福の中にあるのだ。
 
 
 
してみると、アセンションとは、本来、キリスト教世界の言葉であり、魂が四次元の肉体から(おもに肉体の死によって)解放され、イエスとともに次元上昇することであるが、
 
日本の至宝である禅は、すでに四次元の肉体にあるまま、すなわちこの世界に生きたまま、アセンションする方法を確立していると言える。