火の鳥よりも
- テーマ:
- 禅とアート…日本の和の魂
(ドナルド・キーンさん95歳)
毎年11月2日の祭りの夜、新潟県の宝徳大社には火の鳥が舞う。とくにJES社長の本井さんがブログで紹介してから全国的に知られるようになった。
本井さんとおれはお互いに青年のころからじつに30年来の友人で、たまに酒を飲む。彼のほうが弱冠年上だが・・・なんと言っても彼は60代だがおれは50代だ!・・・と言っても同じ世代であることに違いはない(笑)
火の鳥のことは以前から彼から聞いていたが、先々週、一緒に飲んだ時にもその話が出て、今年はその祭りの日がちょうど連休に続くので、旅行ついでに見に行くことにした。
それで先週、11月2日、ちゃんと夜8時までに大社の奥殿まで行って、しばらくは屋台や演芸場(神殿なのに広い演芸場がある)で楽しんだが、火の鳥を待つために外に出ればこれという居場所もなく、寒かったこともあって、夜10時半ごろにはホテルへと引き上げた。
JESのスタッフたちも来ているはずなので電話しようとも思ったが、彼らは彼らで楽しんでいるはずだし、おれはおれでお楽しみがあるのでそのまま引き上げることにした。
火の鳥は見られなかったが、まあ、見られても見られなくとも大した問題ではない。
本井さんもそうだが、おれも奇跡は数知れず体験しているので、火の鳥が現れても不思議ではないし、現れなくても神と宇宙に対する絶対の信頼は全く変わらない。
第一にわれわれの生命の存在そのものがすでに最大の奇跡なのだ。
イエスも多くの奇跡を行って、人々を信じる者へと導く道しるべとしたが、
イエス自身は、不思議なことを見て信じる者となるより、不思議なことを見ないで信じる者となれ、と言っている。
それよりも、
翌朝、ホテルから見た日本海がおおなぎで、真っ青な空がどこまでも高く、海水も透き通って、生まれて初めて見るほどの美しい海だった。眺めているだけで心と頭が癒されていくのだ。
太平洋の海は鎌倉や伊豆などで見慣れているが、日本海の海がこれほど美しく癒す力があるとは今まで気づかなかった。
ホテルのウェイトレスに聞くと、これほどに晴れ渡った静かな日本海は稀だというので、大当たりだったのだ。
それでこの日本海を部屋からコーヒーを味わいながら鑑賞し、温泉で湯船に浸かりながら鑑賞し、ラウンジで遅い朝食をとりながら鑑賞し、さらに海岸に出て、砂浜をゆっくり散歩しながら鑑賞した。
子どもじゃないのに、海水が驚くほど透き通っていたので砂浜で手に救い、その爽やかな冷たさに感動までしてしまった(笑)
それから目的地の一つ、柏崎のドナルド・キーンセンターに向かった。
ここにはキーンさんの二ューヨークの書斎が忠実に再現されており、ニューヨークでキーンさんが使っていた書籍、机、ソファーなども置かれている。
ご存知のとおり、キーンさんはいま95歳だが、じつに70年に渡って日本の文学を研究し、英語に翻訳して、高い見識でその魅力を世界に伝え続けた。
その研究と翻訳は、万葉集や吉田兼好などの古典から太宰治や三島由紀夫などの現代文学にまで及ぶ膨大なものだ。
キーンさんと日本人との最初の出会いは、太平洋戦争の戦場であった。20歳のキーンさんはアメリカ軍の情報分析官として敵国・日本の文書の情報分析を行っていた。
そして、自決した日本人兵士の手記に接する。キーンさんの心を捉えたのは、戦地の島で7人だけ生き残った日本兵の、飢えと疲労の限界状況の中でのささやかな正月の祝いの記述であった。
「戦地で迎えた正月。13粒の豆を7人でわけ、ささやかに祝う。」
それは日本人の魂であった。
なぜ、暴動が起こらないのか?
なぜ、限界状況で13粒の豆を分かち合い、ささやかに正月を祝うことができるのか?
「鼓童・日本の魂よ甦れ」や「大和魂(1)甦る日本人の魂」でも書いたが、外国ではこういうことはあり得ないのだ。
キーンさんは激しい衝撃を受ける。
そうして戦後、文学者となったキーンさんは日本文学の研究をしながら、「日本人とは何者なのか」という壮大な問いを考え続けることになる。
戦後のヨーロッパやアメリカは敗戦国日本に対する偏見と敵意で満ちていた。
キーンさんは復員後コロンビア大学、ハーヴァード大学、ケンブリッジ大学に学び、講師も務めたが、それら大学においてさえ日本文学を研究し教えるキーンさんは罵倒され、侮辱された。
しかしキーンさんは、それを払拭するためにも1人でも多くの人に日本文学を読んでもらいたいと、日本とアメリカを何度も往復し、日本文学の研究と翻訳と紹介になお一層努力を重ねたという。おれなんかは頭が下がる思いだ。
やがてキーンさんと谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、司馬遼太郎、丸谷才一、篠田一士など日本を代表する文豪たちとの交友関係が生まれ、とくに三島由紀夫や安部公房は親友となった。
日本文学界初となった川端康成のノーベル賞受賞にも尽力した。
キーンさんの功績なしには日本文学が世界で読まれることはなかったのではないか。
そうして彼はコロンビア大学教授となり、コロンビア大学ドナルド・キーン日本文化センターを設立し、ドナルド・キーン財団を設立する。
彼の著作は菊池寛賞、日本文学大賞、井上靖文化賞など数えきれないほどの賞を受賞し、2008年には文化勲章を受章した。
キーンさんは日本人よりも日本人の魂を知る男となり、
キーンさんの人生は、日本文学、すなわち「日本人の魂」を世界に現すことに全てをかけることとなった。
そして6年前、東日本大震災が起こる。
外国人はみんなわれ先にと日本から逃げ出していった。
しかし日本人は家族を失い、家を失い、職を失った絶望と飢えと疲労の中で、お互いに励まし合い、分かち合い、助け合った。
なぜ、暴動が起こらないのか?
なぜ、限界状況の中で助け合い、励まし合い、ささやかに人のために喜ぶことができるのか?
世界のマスコミが驚嘆したとおり、外国ではありえないことなのだ。
これは70年前、太平洋戦争の戦地の島で7人だけ生き残った日本兵が、飢えと疲労の限界の中で13粒の豆を分かち合ってささやかな正月を祝ったのと同じではないか?
日本人とは何者なのか、キーンさんの頭の中で何かが繋がったに違いないと思う。
そしてキーンさんは外国人でただ一人、日本に踏みとどまる。
放射能が日本全土を覆ってしまうような報道が相次ぐなかで、キーンさんはあえてニューヨークの自宅を処分し、日本に永住するため日本国籍を取得した。
キーンさんは言う、
「私はこの日本の人々と共に生き、日本の人々と共に死にたい。」
けっきょくおれは、火の鳥は見られなかったが、
透き通ったおおなぎの日本海と、ドナルド・キーンさんの思いに、
心の底から湧き上がる感動をもって、真実の神を見た。