フミヤス・サンタゲバラ クラブ

人間と世界を動かしている秘密と真相を勝手に書いていきます。 このブログには実在の政財界のフィクサー、実力者、著名な実業家、メスネコなどが登場します。

祭りよ、火よ、水よ、燃え上がれ!

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 (待機する4基の山車)

 

 

ーー 祇園祭りの興奮に見るイスラエル建国の祭典と縄文日本人の情熱 ーー

 

 

先週、滞在先の熊谷で「熊谷祇園祭り」を見学した。通称「熊谷うちわ祭り」という。

 

 

 

熊谷祇園祭りは、東日本最大の祇園祭りと言われる。何しろスタッフだけで2000名、観客は3日間で延べ75万人にも上る。

 

京都の八坂神社(祇園神社)の分社である熊谷の愛宕八坂神社(愛宕祇園神社)の祭典である。

 

祭りは足かけ5日間続くが、おれが見学したのはメインの夜の興奮のクライマックス。75万人の半数以上はこのクライマックスの夜に集中するので、お祭り広場を中心とする道路はみな人、人、人の洪水で埋まっていた。

 

 

 

祭りはすでに3日前の夜に始まっていて、愛宕八坂神社で大総代(一番偉いおやじ)と役員と宮司によって神社の御霊が神輿(みこし)に遷されている。

 

そして翌早朝、御霊の入った神輿は各町の若頭総勢100名によって担がれ、木遣りと関係者の歓声の中、本宮(愛宕八坂神社)を出発して町々の迎え太鼓に出迎えられながら巡行し、渡御して(いまは川は渡らないが、渡御という名称だけ残っている)、お祭り広場の御仮屋に入る。

 

さらに翌日、10ヶ町の山車(だし)が宮司や役員に率いられて近くの広場に集結し、西へ西へと巡行を開始する。途中、待機していた2ヶ町の山車が合流し、計12ヶ町12基の山車で巡行を続け、お祭り広場に到着すると御仮屋の神輿に礼拝する。

 

夕暮れ、全町の山車がそれぞれに行列を組んで動き始め、街中を巡行しながら各所で「叩き合い」を繰り広げる。

 

叩き合いとは、各町の山車同士が遭遇した際、各々の山車のおやじや若衆たちが鉦(かね)や太鼓を打ち叩いてエールを交わすのだ。その勢いが双方のおやじも若衆も全身の筋肉が激しく躍動するほどに全力で打ち叩くので、まさに「叩き合い」という言葉がぴったりなのだ。

 

それら各所で山車同士の叩き合いのたびに山車が合流し、やがて東西南北から合流してきた山車が再びお祭り広場を目指していく。

 

 

 

そしておれが見学した祭りのメインイベント当日、

 

神輿の安置される御仮屋に宮司、関係役員が集まり、神官の浄衣をまとった大総代が御霊の移された神輿を前に、自ら祝詞を奏上し、玉串を捧げると、

 

徐々に12基の山車が「最後の叩き合い」の地であるお祭り広場周辺に集結し、4軍に分かれて、広場に通じる東西南北の大通りで待機する。

 

 

 

そして、夜、祭りの盛り上がりはクライマックスを迎える。

 

お祭り広場中央北側の御仮屋に鎮座する神輿の正面、大舞台に、歓声とともに大総代が登場して挨拶する。挨拶の中身は意味がないが、盛り上がりはすごい。

 

それから市長のやはり中身はないが盛り上がる挨拶(この市長はこの前も香取神道流の奉納演舞で中身のない挨拶をしていた)、それから締めとして埼玉県知事の上田さんが締まりのない挨拶をしたが、これもまた不思議と盛り上がる。

 

ようするに挨拶の中身はどうでもいいのだ。数千人の関係者と数十万人の観客の熱気と吹き出す汗とエネルギーが歓声となり拍手となってこだまする。おれの浴衣も熱気で浴衣か風呂釜かわからない。この熱気と興奮こそがすべてなのだ。

 

 

 

一連の挨拶が済むと、待機していた4軍12基の山車が鉦と太鼓を全力で打ち叩きながら、四方から、ひしめく群衆を押し分けるようにゆっくり広場中央へと進軍してくる。

 

これは壮観だ。まさに鉦と太鼓を打ち叩きながらの「進軍」なのだ。

 

四方から広場中央の大舞台に向かって4軍12基の山車が勢ぞろいすると、渾身の最後の叩き合いが繰り広げられる。

 

広場は興奮のるつぼとなった。

 

 

 (睨みの効く木遣りのじーさん)

 

 

みんな熱中症で倒れるほど盛り上がったところで、大きな拍子木を持った木遣りのじーさんが大舞台に登壇し、四方に睨みを利かしながらゆっくり拍子木を打ち鳴らし、山車の一基一基に指令を出して、鉦と太鼓を鎮めていく。

 

すべての山車が鎮まって、じーさんが舞台を降りようとすると、ハプニングで後ろの山車の一基が太鼓と鉦を鳴らしてしまった。すると舞台を降りかけたじーさんがぴたりと足を止めて振り向いて睨みつけた。これでその山車もぴたりと鎮まって、広場一面を気迫に満ちた静寂が支配した。

 

たいしたもんだ。

 

こういう腹に力の入った、睨みの効くじーさんが健在でいるうちは、若者たちも健全に育つ。この熊谷の街も安泰だ。

 

 

(響き渡るみごとな木遣りを演じるじーさんたち)

 

 

そして数十万人の気迫が支配するなか、露払いの祭り法被の女子衆が先導して木遣りのじーさんたちが登壇する。

 

広場一面に響き渡る大音声の木遣り。これは見事だ。

 

 

(年番送りの式次第で大総代の登場)

 

 

それから年番送り(大総代の交代)の式次第。

 

司会のおやじのマイクの声が熱気と興奮と、圧倒的な感激に感極まって、ついに涙声になってしまった。

 

 

 

そしていよいよ最後の最後、12基が一斉に、腕の筋肉も破裂しろとばかりの全身全霊の最後の叩き合いとなった。

 

この暑さで倒れた者も相当いたのではないか。

 

 

 

この興奮のるつぼで、おれは熱気と吹き出す汗にまみれながら、この祭りのストーリーがはるか遠い昔に自ら体験したような、懐かしさが駆け巡るような思いに駆られた。

 

観衆の多くはそういう思いに駆られていたのではないか。

 

 

 

ユダヤのラビ・トケイヤーは、「京都の祇園神社では、毎年、祇園祭のときに男たちがお神輿をかついで川に入り、川を渡る。こうした光景は私には、かつてイスラエル民族の祭司たちが契約の箱(神輿)を担いでヨルダン川を渡ったという出来事の再現に見えてならない。」と述べている。

 

3300年前、イスラエル12部族は、大総代ヨシュアに率いられ、神輿(神の契約の箱)を担いでヨルダン川を西岸へと渡った。

 

そして神輿は仮屋に安置され、イスラエル12部族は4軍団に分かれて西へ西へと進軍し、ヨルダン川の西側に居住していたカナン人を大量虐殺し、征服し、そしてイスラエル王国を建国する。現在のイスラエル共和国と同じ土地である。

 

ラビ・トケイヤーの言うとおり、祇園祭りのストーリーは、3300年前のイスラエル王国建国の歴史的事実とまったく同じなのだ。

 

 

 

なぜ、2万年に亘ってこの日本の地で愛と和の精神を培ってきた日本人が、今から3300年前のイスラエルの殺戮と征服の建国の歴史を「祭り」として再現し、しかも懐かしくさえ感じるのか。

 

そうして建国されたイスラエル王国は、ダビデ王、ソロモン王のとき隆盛を極めるが、その後分裂し、イスラエル12部族のうち10部族は北王国に、2部族(主にユダヤ部族)は南王国へと別れた。

 

そして今から2700年前、北王国は東の強大なアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、10部族は東方へ連れ去られ、その後、行方不明となる。いわゆる「イスラエルの失われた十部族」である。

 

ちなみにイスラエルの地には南王国の主にユダヤ部族だけが残り、後にユダヤ人として世界の経済を牛耳っていくことになる。

 

 

 

失われたイスラエル10部族はどうなったのか?

 

これはじつに2500年ものあいだ行方不明のままであったが、20世紀に入ってイスラエル共和国が建国されると各地に調査員が派遣され、その足跡が徐々に解明されるようになった。先述のラビ・トケイヤーも日本に派遣された調査員だと考えられる。

 

すなわち今から2600年前に支配者アッシリア帝国が滅ぶと、イスラエル10部族は世界各地に分散していったのであり、その後の足跡も解明されつつあるのだ。

 

たとえば一部はエチオピアへ移住した。このエチオピアイスラエル人は20世紀の同国の内戦で迫害されていたが、新生イスラエル共和国政府の援助によって2700年ぶりにイスラエルの地に帰還している。

 

また一部はアフガニスタンに居住した。現在もアフガニスタンには、失われたイスラエル10部族の一つであるヨセフ部族の末裔だという民族がいる。

 

そして一部は中国に移住した。宋代まで、開封にはイスラエル人の街が存在したのである。また現在の中国の少数民族である回族古代イスラエル人の末裔がイスラム教に改宗したものだという説も有力である。

 

さらに一部は、今から2300年前、弥生人の一派として日本に侵攻し、侵略して、移住したとする説があるが、これは真実味がある。

 

 

 

日本ではいまだに天皇や支配階級は神聖にして犯すべからずという不文律があって、またそれを死守しようとする右翼主義者も多かったため、研究者たちは天皇たちの出自を解明しようとしない。

 

 

 

しかし、古代イスラエル人が大事に担いできた神輿が現存し、その神輿を古代イスラエル人と同じやり方で担ぎ、しかも古代イスラエル建国という歴史的事実をモチーフとする祭りを毎年津々浦々で執り行っている民族は、世界で日本だけである。

 

その他にも日本人とイスラエル人との共通性は驚くほど多い。これら物証から類推すれば、2300年前に神輿を担いで日本に渡来し、縄文日本人を虐殺し征服した弥生人の一部はじつは失われたイスラエル十部族の一部であったと考えるのが自然である。

 

いや、弥生人の一部がイスラエル人であったと言うより、これらイスラエルの神輿の祭りがその後の日本の祭りの中核をなしているのを見れば、天皇一族や秦氏藤原氏など弥生人の中核メンバーこそがイスラエル人であったと考えるほうが理に適っている。

 

 

 

ただし、おれは天皇の神聖を犯そうと言っているのではない。

 

もしこれらの推論が正しいなら(おそらく正しいのだが)、愛と和の精神を2万年に渡って培ってきた縄文日本人がわれわれ現代日本人の祖先であるのと同時に、2300年前にその平和な社会を暴力でもって侵略し征服して支配したイスラエル弥生人もまたわれわれ現代日本人の祖先だということである。

 

先々週、おれの仮説として、剣道とは、弥生人が持ち込んできた殺人のための剣術に、愛と和を貴ぶ縄文日本人の克己心が融合し、単なる殺人の剣術から「愛と和のために己に勝つ克己心を磨く剣道」へとアウフヘーベンした(高い境地に上った)ものではないか、と書いたが、この祇園祭りも同じではないのか。

 

イスラエルが持ち込んできた「侵略と殺戮の建国の祭り」を、征服されて抑圧された縄文日本人の熱い血が「愛と和と情熱を発露する祭り」に作り変えてきたのではないか。

 

だからわれわれ日本人にとって、祭りの元々の意味なんてどうでもいいのだ。支配者となったイスラエル弥生人のお題目が何であってもいいし、だからその延長でいまの県知事や市長の話に中身がなくてもいいのである。

 

いまや、この祭りは、愛と和を貴ぶ縄文日本人の熱い血が噴出し発露する、愛と和と情熱の祭りとなったのだ。

 

 

 

おれは東日本最大の祇園祭りの熱気と興奮を肌に感じながら、吹き出す汗とともに、同時に東日本大震災で家族も家も仕事も失いながらも互いに争うことなく助け合い、励まし合った縄文日本人の熱い血を思い起こした。

 

そして日本人として己自身も引き継ぐ縄文日本人の愛と和の精神を再確認し、感動と感謝の思いが沸き起こるとともに、また己自身の中に共存する弥生人の征服・侵略の精神も自覚し、それゆえ克己心もまた奮い立たせなければならないと感じて、興奮と熱気と噴き出す汗にもかかわらず、身が引き締まる思いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸) 本文が文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」のHP の「特集NO4 日本の祭りシリーズ」第1回に掲載されました。