グーグルにも考えてほしい「男の愛のかたち」
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- 星降る夜空のような包容力を
(映画「夜叉」の高倉健 と 田中裕子)
こんばんは。2日続けてのブログで失礼します。
おれが2日続けてブログを書くのは初めてのことじゃないだろうか?(笑)
今日、哲学的文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」で、特集NO3「男の愛のかたち」がスタートしたので、つい書きたくなったのです。
いま、ヤフー、グーグル、インターネットとAIの時代だからこそ、それらを超える本物の愛が求められる。
女性は少女のころから少女漫画などで恋愛に慣れ親しんでいるが、男も人間の成長とともにそれぞれの愛のかたちが必要ではないか。
それでこの特集に、まず、おれのフミヤス・サンタゲバラから3編が掲載されることになった。
第1編は、先々週書いた「男は神の似姿になれるか ― カサブランカの美学 ―」。
映画カサブランカは、愛する妻のために自分が犠牲になろうとする夫のラズロと、そして最後は自分が犠牲になることを選択する元恋人のリック、この二人の男の愛のかたちが描かれる。
この映画を10年前に観たときは、カサブランカの二人の男の愛はあまりに美しい自己犠牲の愛に見えた。西洋では自己と他己を峻別するので、聖書の神の愛は自己犠牲の愛となって描かれることが多いのだ。
しかし、愛は、隣人を守り、愛する人を守るために自らの生命をも惜しまない。だから楽も得もなく、苦も損もない。自己犠牲ということもない。
今回は、カサブランカの二人の男も、何も求めず、だから損も得もなく、自己犠牲ということもなく、ただ愛する女性を情熱をもって命を懸けて愛しぬいた、と観えた。
すると、それは自己犠牲の愛というよりも、愛一如の、神の似姿を思わせる愛ではないか。
第2編は、昨年書いた「それがどうした」。
江戸幕府の火付け盗賊改め方長官・長谷川平蔵の妻、久栄(ひさえ)に関わる話である。
平蔵の妻、久栄にむかしの男がいたのだ。
と言っても、久栄が生娘で初心だったころに隣家の不良息子に弄ばれて凌辱されたのである。平蔵はそれを承知で久栄を貰い受けたのだ。
ところがそれから二十年経って、この男は喰いっぱぐれて盗賊に成り下がり、二十年前のことを持ち出して久栄を脅しにかかってきたのである。
すなわち男は久栄との過去の情事を平蔵に詳細に吹聴して夫婦ともに苦しめようというのだ。また公儀火付け盗賊改め方長官夫人と盗賊との情事が面白おかしく世間に知れれば長谷川平蔵は失脚するだろう。
この局面で長谷川平蔵はどんな愛を見せるか?
第3編は、「西郷どん」。
これは以前ブログに書いたものだが、すでに編集して「日本の文化伝統そして日本人のこころ」に掲載されていたものである。
西郷隆盛ほど日本人のこころをありのままに体現した人物は、他にいないと思われる。だからわれわれが西郷の生きざまとその言葉に遭遇するとき、それらはわれわれに愛と生きる力を与えてくれるのだ。
西郷の愛のかたちには、仏性にも、聖書にも、またわれわれ一人一人の潜在意識にも共通する普遍性がある。この愛の普遍性こそ、縄文日本人のこころに見いだされる、愛と和の精神ではないだろうか。
今後、続編が掲載されるのをおれも楽しみにしたい。
追伸) 昨日書いた「スピルバーグのインチキ映画と、第三の男」にはマスコミの裏側のことが書かれているので、ぜひご覧ください。