大人の女の愛は「神の愛」で ― 縄文の万葉集 ―
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文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」 の
こんな言葉が載った。
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乙女は恋う。
風が吹いても、音がしても、何をしていても心が痛みます。
そんな切ない思いをするほどの恋なのです。
それでも、
心が痛むのは切ないばかりだけれど、
それほどに想い焦がれる人と出会えたのは、なんて、なんて素晴らしいことでしょう。
と、嬉しさに震えます。
でも、また、
あなたが恋しくてじっとしていられなくて、奈良山の小松の下に立ち出でて、ただただ嘆くばかりなのです。
それは恋で心が揺れるというだけのことではないのです。
揺られ、揺られて、いたぶられて、苦しくて堪えられない、恋の重さにこの身が砕かれてしまいそうなのです。
恋とは、この世の中で最高に苦しいものだったのですね。恋の重さに堪えかねて死んでしまいそうです。
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なんと素晴らしく情熱的で烈しいほどの愛をまっすぐに表現していることか。
この深い想いはどんな男の胸にも深く響くだろう。
しかし、この烈しい女の恋情を、男たちは正面から受けとめられるだろうか?
未熟な男と未熟な女が情熱的に烈しく愛し合おうとすれば、お互いにわがままな自我のぶつかり合いになる。
人は、多くの場合、そうして傷つけ合い、男も女もボロボロになってきた。
その傷が繰り返しえぐられれば、男は愛そのものがトラウマとなって、愛を受け入れられなくなり、愛を受けとめられなくなっていく。
おれが子どものころ(小学生のころ)、堺正章さんのこんな歌が流行ったことがあった。
(注:堺正章さんは元々はお笑い芸人ではなく歌手だった)
題名は忘れたが、おれはませていたので歌詞は憶えている。
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さよならと書いた手紙
テーブルの上に置いたよ
あなたの眠る顔見て 黙って外へ飛び出した
いつも幸せすぎたのに 気づかない二人だった
冷たい風に吹かれて 夜明けの街を一人行く
悪いのは僕のほうさ
君じゃない
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当時、子どものおれから見れば、堺正章は大人の青年だ。
しかしツッパッてるフリをしていても細くて頼りない堺青年が一人で冷たい夜明けの街をとぼとぼ歩いているところを想像させるこの歌に、子ども心にもなんかジ~ンと来るところがあった。
ところがそのジ~ンと来るところは、自分が大人になって激しく切ない女の愛に直面して、じつは多くの男が否応なく体験させられる「ジ~ンと来るところ」であったと思い知る。
昭和の歌謡曲はフランスのシャンソンのようで、安っぽいようでも、じつはゲーテの若きウェルテルの悩みよりも一歩先を行っているヤツもある、と言えなくもない。
ウェルテルは人妻の彼女が自分のものにならないことに絶望してピストル自殺するが、しかし昭和の歌謡曲では、すでに彼女を自分のものにしていることが多い。
ただ、その後、自我をぶつけ合い、傷つけ合う中でだんだんボロボロになって、だんだん愛を受け入れられなくなり、受けとめられなくなっていく。
そうなると、さよならと書いて出ていくしかないではないか。
人類の始まりのときにアダムが楽園のエデンの園を去って厳しい荒野でいたぶられていくように、彼女のもとを去って厳寒の夜の街を一人でとぼとぼと歩いていくことになる。
余談だが、愛の傷がトラウマとなった男は、それでも愛を渇望して求め続けながら、しかし愛を受けとめられないから、ドンファンとかプレイボーイとか言われる男になりやすい。
ドンファンとかプレイボーイとかいうとその男の人生は楽しそうだと思われるかもしれないが、本人は孤独で苦しく厳しい荒野を一人でさすらっていたりする。
しかし、そんなろくでもない男にも、
やがて、女の愛は神の愛だ、と知るときが来る。
親しい大人の女性が、彼女自身の人生の指針として、加藤諦三さんの本のこんな一節を示してくれた。
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愛は、自分の限界、人間の限界を知ったときに始まる。
夜更けて一人眼を覚ましてその人を思い、あるいは真昼の中で一人その人のことを思い、どうか今その人が幸せであってほしいと、何ものかにすがるように祈ることで愛が始まる。
そしてそのように祈ることで愛はつづく。そこに自分の存在があろうがなかろうが、自分の存在とは関係なく相手の幸せを祈る。
相手が幸せであるということを知って、自分が救われる。今その人が幸せであると知ってほっと胸をなでおろす。
そしてこの幸せがいつまでも続いてほしいと祈る。
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彼女は、縄文の万葉集と同じように愛の激しく切ない想いに翻弄されながらも、なんとか自我をコントロールしようと努め、努め続けることで純粋に相手の幸せを祈る女性へと自己成長していきたい、そしてそういう愛を育てていきたい、と、真情を吐露する。
事実、彼女は以前から仏教の高僧に師事して自己の修行に努めている。
こうして、自分はトラウマのあるろくでもないヤツだと思っていた男でも、大人の女性が、深く恋い慕い、彼女自身が翻弄されながらも、これほどに純粋に尽くし愛してくれることを知る。
そのひたむきで誠実な愛は、神が造られた男を神自身が恋い慕い、愛してくれているようだと思える。
いや、それはじつは神の愛そのものではないか。
その女の愛こそが、神自身が現世の人間(神のふところの楽園であるエデンの園を飛び出して厳しい酷苦の荒野をとぼとぼと歩いていく人間)を、それほどに恋い慕い、誠実に愛してくれている姿なのだ。
と、知って、
このろくでもない男も彼女によって再び愛を受けとめ、愛で満たされて、その瞬間において、彼女とともに神のふところエデンの園に帰ったのである。