愛は刃の切っ先で踊る
- テーマ:
- ジョン・ウェルウッドさん (セラピスト)
愛の出会いは二人を刃の切っ先に導く。
異質な要素が出会う境界は、刃の切っ先のように鋭く尖っている。
二人が惹かれあうほど、愛は、「これが自分だ」とか「自分らしさだ」と自分で定義している習慣や思い込みを、ときには容赦なく切り裂き、切り捨てていくからだ。
誰かと接して激しい衝動を憶え、痛切さ、感動、愛、激情などに強く心を動かされたなら、それはあなたがこのむき出しの切っ先にいるということである。
「愛は恐れを追い払う」という言葉はあまりにも単純な決めつけのように思える。恐れはむしろ親密さの友であり、むしろ「愛は恐れと親しみ合う」と言えるだろう。
パートナーシップのマインドフルネス
ジョン・ウェルウッド(島田啓介訳)
先週末にインフルエンザにかかって、金曜から昨日まで3日間寝込んでいた。
去年の暮れも酉の市の屋台で食べた生ものが食あたりを起こして何日か寝込んだので、去年の暮れから年明けにかけて少しスマートになったかもしれない。
昨日の午後から頭痛もだいぶ緩和したので、それで部屋の本棚からあまり頭を使わなくてもよさそうな本を選んで読んだのが上記の「パートナーシップのマインドフルネス」(ジョン・ウェルウッド)だった。
この本は親しい女性が2冊購入してそのうちの1冊をプレゼントしてくれたものだが、そのうち目を通そうと思いながらもそのまま本棚に積まれていた。なんとなく勉強しなさいと言われているようで、無意識にほうっておかれたのかもしれない。
ページを開くと、作者の文章力がないのか、訳者の翻訳が下手なのか、難解ではないのに解りにくい言葉で三部300ページ以上もあるので、とりあえずそのうちの第一部だけ読んでみた。
結果は・・・
とても勉強になりました(笑)
作者のウェルウッドさんは「禅」に深く通じていて、禅の思想と実践を恋愛に応用しているところがなんとも素晴らしいのだ。
ウェルウッドさんは語る。(注、フミヤス流大幅要約)
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愛する人との出会い、そして愛が、自分たちを救い、あらゆる問題を解決し、変わらない幸福と安定を授けてくれるはず、というのは幻想であり、ただの思い込みである。
そういう思い込みが自分自身を願望の幻想に閉じ込め、愛の本来の力を損なわせてしまう。
(いきなりいいところから入った。そう、こういう思い込みが愛の破たんの根本原因になっていることが多いのではないか。)
自分の欠点を愛する人が補ってくれるのが愛だという錯覚を続けるなら、情熱や豊かさどころか、大きな苦しみがやってくる。自分の人生で失った伸びやかさや瑞々しさを与えてくれるのは愛する異性だけだという幻想に浸るなら、むしろ異性との関係によって心に飢えと虚しさが広がるだけだ。
何かを与えてくれるのが愛ではない。
愛とは「道」である。
出会う困難を生かして相手と繋がり、自分自身のいのちとも繋がることができる、そういうチャンスがある道なのだ。
愛する人が自分にない性質を持っている場合、本物の愛なら、彼(彼女)は、あなたの欠けたところを補ってくれるのではなく、あなた自身で欠けたところを育てるよう迫ってくるのである。
そのときはじめて人は情熱を掻き立てられ、強く惹きつけられるのである。自分が気づいていなかった自己の全体像の広がりと深さを、彼(彼女)が教えてくれ、体験させてくれるからだ。
人生を精いっぱいに生き、愛する人と深く豊かな関係を築くことを妨げているものは何か?
それはあなた自身の「自分とは何か」についての理解の狭さ・貧しさにある。
長い年月をかけて固定した心の癖、逃避、拒否、無智、恐れなどによって形成されたパターンによって私たち自身が締め付けられ、生命力を絶つぞという脅しを受けている。網に捉えられている。
この強固に条件づけされたパターンは「カルマ」と呼んでもいい。手を打たなければカルマは人を生き埋めにする。
しかし私たちの本質は真実を求める。真の自分を求める。
自分一人では自分のパターン、カルマに気づかない。そのへんのヤツから何か言われても「なに言ってやがるんだ!」と反発するだけだ。
しかし愛する人があなたのパターンに何らかの反応を示せば、無視できなくなる。自己の成長へと歯車が回り始める。異性を愛するとハートとカルマの出会いが起こるのだ。
ハートとカルマが出会うなかで、不確かさや混乱、恐れや弱さの感情が生まれ、その中心に生々しいものが姿を現してくる。ありのままの経験と感情である。
この生々しいもの、ありのままの経験と感情はこぎれいな容器にぴたりと収まりはしない。こうあるべきだと思い描くような理想的なイメージと一致することもない。
自分自身と和解するためには、いま経験している事実と感情をあるがままに受けとめるしかない。
それは苦しい作業であるが、そうして、やがて、気づくのだ。
自分が創作したストーリー・カルマから、気づきへと乗り換えたのである。