月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO3・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん
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- 橋本兵蔵さん (月光荘おじさん)
(大正時代、パリ帰りの詩人、深尾須磨子)
今週は友人の紹介で昭和大学教授の佐藤均さんとお茶を飲む機会に恵まれた。
佐藤さんは東大卒で、アメリカ国立衛生研究所の研究員、スイス・バーゼル研究所の客員研究員も務めてきたバリバリの研究者だ。
佐藤さんが日本古来の麻の研究をしていることもあって、おれのテーマである 「縄文日本人の愛と和の精神」 「東日本大震災における縄文の精神」 「日本型医療の必要性」 などでも大いに気が合った。
それに水上治さんを尊敬していることもわかったので (財)国際健康医療研究所のHPも見ていただいたところ、ぜひ参加したいという意向を示してくれた。
それでさっそく(財)国際健康医療研究所の水上治理事長、大谷雄策代表理事に連絡したところ、「大賛成」ということで、近々みんなで会食することになった。
また財団の新しい仲間が増える。なんとも嬉しい限りだ(^^)
閑話休題!
本題、月光荘のおじさん、こと兵蔵さんから学んだ 「すごいこと」 である。
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(前回の続きから)
大正時代の1917年、兵蔵さんは23歳で著名な芸術家たちの支援を受けて新宿に画材店 「月光荘」 を開いた。
兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。
大恩ある芸術家たちのお役に立ちたい。
兵蔵さんは、芸術家たちの要望に応えて画材に工夫を重ね、そうしているうちに、期せずして30件を超える特許商品を開発することになり、
フランス以外では不可能と思われていた絵の具も、はじめて国産の絵の具の開発に成功した。
新宿の月光荘画材店はにぎやかになっていった。
やがてパリの街角のようなお洒落なサロンと喫茶店が併設され、中川一政、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄、脇田和などの当代一流の芸術家たちの社交場となった。
また月光荘ギャラリーも開設され、岡田三郎助が審査委員長となって絵画のコンクールが催された。
さらに画家の中西利雄の発案でクラブ室ができて、グランドピアノが設置され、あらゆる楽器もそろった。
1930年代後半になると、兵蔵さんの月光荘画材店は、新宿大通りの一等地に100坪もの敷地を有し、
詩人の深尾須磨子の発案でパリ風の中庭のあるサロンや喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを併設し、
雑誌 「洋画新報」 「近代風景」 を発行するまでになった。
お洒落な街角の代表として、映画のロケ地に毎年20~30回も使われるようになっていた。
それでも大恩ある芸術家たちへのご恩報じで始めた仕事である。
店が大きくなっても兵蔵さんは欠かすことなく自ら芸術家たちに商品配達を行い、何か困っていることはないかとご機嫌伺いに通った。
若い芸術家の面倒を見ることも忘れなかった。
若い画家には奨学金を出し、月光荘のサロンや喫茶店では恋も芽生え、結婚式も挙げられたのである。
しかし1945年、日本は太平洋戦争に敗戦する。