樵舟書論「興芸書学入門」
『 かいせい 』 : 誠心を抱き持つ 樵舟(しょうしゅう )
おれは書を書くのは全くの素人で、なにしろ小学生の習字の時間以後は現在に至るまで筆を持ったことがない。
しかし鑑賞するなら「書」は実に美しいと思う。
とくに書家・池田樵舟の書は部屋にあってそこに目が行くだけで心身が癒され、自らの姿勢がおのずと正されていく思いがする。
樵舟は中国古典の真髄の書の継承者であるが、しかしいま樵舟の書によって癒されるのは日本人であるおれの心身であり、そのときおれの心身に蘇るのは縄文日本人の魂なのだと感じる。
それは樵舟自身が中国古典の書の真髄を極めながらも、それを単に模倣しているのではなく、それを契機として、樵舟自身の縄文日本人のこころが磨かれ練達して「樵舟の書」を熟成させてきたからだと思う。
書家によると、中国古典の書は「いのち毛」がしっかり生きている。
書道の理論、書法に関する議論を「書論」というが、その生きた中国古典の真髄を書論に著したのは、中国清時代(日本の江戸時代~明治時代)、書の最高の大家といわれた包世臣(ほうせいしん)である。
そしてその包世臣の書論は中国清朝の偉大な政治家でもあった康有為(こうゆうい)へと受け継がれ、さらに満州帝国の幕僚でもあった文人の景嘉(けいか)へと受け継がれた。
第二次世界大戦下、満州帝国が崩壊すると、景嘉は台湾に亡命し、さらに日本に亡命する。
戦後、景嘉は日本で最高峰の知識人と言われ、その交友は、日本の歴代総理の師であった安岡正篤、佐藤慎一郎、吉川幸次郎など錚々たる学者たちに及んだ。
その錚々たる学者たちにまじって、一人だけ、わずか19歳で景嘉の門下に入り、景嘉が他界するまで8年にわたって景嘉に直接師事した青年がいる。
彼自身、この期間が生涯において最も充実し、影響を受けた日々であったと述べている。
その青年はさらに数十年に渡って研鑽を重ね、後に樵舟と号する。本編の主役、樵舟の誕生である。
だから樵舟には、どこまでも謙虚で慕われる姿勢の背後に、中国の古典から脈々と伝わる生きた書論を背負っている歴史の重みがある。
かくして、中国の古典から脈々と伝わる生きた書論の真髄は、包世臣から康有為へ、さらに景嘉へ、そして日本人書家・樵舟へと受け継がれ、
われわれもまた樵舟の作品に触れるたびに、世界最高峰の中国古典の真髄によって、われわれ自身の日本人の魂と品格が呼び覚まされ、磨かれていくのを感じるのである。
樵舟の弟子である友人によると、現代において、「いのち毛」の真髄をたいせつにした書論が書けるのは、樵舟をおいてほかにない。
そして、今秋、ついにこの樵舟の書論「興芸書学入門」が書き上げられたのである。
書論なので、映画のような興奮はないだだろうと思って淡々と読んでみたが、おれのような素人が読んでみても、読み進むうちにそこにドラマを感じる。
書論にこれほどのワクワク感を感じることこそ、樵舟の書論に生命がある証拠だ。
おれのような書の素人がご紹介させていただくのはおこがましいが、これまでの交流の流れがあるので、あえてご紹介させていただきます。
以下、樵舟書論「興芸書学入門」