なまはげの神の激怒② 神がいなくなった!
2月7~9日、男鹿半島の真山神社で「なまはげ」の祭りが執り行われた。
おれが見学したのは9日、日曜日の夜であった。
この日、男鹿半島は粉雪の舞う厳寒の真冬で、灰緑色の日本海の前に立つと、荒れる日本海がグォーッ!グォーッ!グォーッ!と唸り声を上げていた。
日本海は、はるか古代から、峻険な男鹿半島の岩肌に激突してきた。
そして毎年、正月の夜になると、その灰緑色の荒海の唸り声とまったく同質に重なって、「なまはげ」の怒りの怒声がウォーッ!ウォーッ!ウォーッ!と、厳寒の雪国に響き渡ってきた。
「なまはげ」は怒髪天を衝く烈しい怒りに突き動かされて、酷寒の激しく舞い飛ぶ粉雪をかいくぐって山から延々と下山し、大刀や大包丁を振り回しながら村々にやってきて暴れまわるのである。
これが古代から続く「なまはげ」の姿である。
ところが!
この日、昼のうちに事前にホテルの部屋で真山神社の「なまはげ紫灯祭り」のパンフレットを見ると、どうもおかしい。
そのパンフレットの写真では、なまはげが5~6匹でチームを作って観客の前で和太鼓をたたき、踊りを披露しているのだ(笑)
パンフットは謳う。
「なまはげと和太鼓を組み合わせた新しい郷土芸能で、『家内安全』『五穀豊穣』などを願って演奏されます!」
「昭和36年に秋田が生んだ現代舞踊家・故石井漠氏が振り付け、息子の作曲家・石井歓氏が曲をつけた勇壮な踊りです!」
なんと!
なまはげ祭りもある程度はショーのアトラクションになってしまっているだろうと予測はしていたが、これほど完璧なショービジネスになってしまっているとは!
真山神社の「なまはげ」は、観光客相手のエンターテイナーになってしまった。
「男鹿に出発する前に、秋田で買ったパンフレットを見て、がっかりした。東京でもどこでもいい、月並みな神社・仏閣あたりにある鬼の面とちっとも変わらないようなのをかぶったなまはげが、れいれいしく印刷されているのだ。これじゃあ、しようがない。」
と語っている。
夜の真山神社に向かうため、早めに夕食をとると、
さいわい世話をしてくれた仲居さんが、近隣の町の出身で、昔のなまはげを知っている50代の女性であった。
食べながら話を聞く。
フミ「なまはげが太鼓をたたくようになったのはいつ頃からですか?」
仲居「そう、5~6年前、いえ、7~8年前くらいですかね~。」
フミ「つい最近ですね! それまでは観客の前で太鼓をたたくなんてことはなかった?」
仲居「はい。なかったですよ。」
フミ「踊りは?」
仲居「やっぱり7~8年前からですね~。」
フミ「7~8年前からなまはげはエンターテイナーになっちゃったんですね(笑)」
仲居「(笑) でも太鼓も踊りも勇壮で楽しいですよ(笑)」
フミ「昔はなまはげは怖かった?(^^)」
仲居「それはほんと怖かったですよ~。昔は心臓が止まるくらい怖かったです。私は今でもなまはげがウォーッ!と叫び声をあげて戸口をドンドンとたたく音を聞くと心臓がドキドキするくらいです。」
じつに「なまはげ」がアトラクションのエンターテイナーとなってしまったのは、わずかここ7~8年の間のことなのだ。
果たしてこのエンターテイナーの「なまはげ」に、かつての恐かった「なまはげ」の片鱗でも見いだせるだろうか?
いや、もっと言えば「なまはげ」の精神、そしてその神の片鱗を見出すことができるだろうか?
とりあえず、真山神社に向かった。
なまはげの神の激怒① 荒れる灰緑の日本海にて
週末から連休を取って、秋田県の男鹿(おが)半島に行ってきた。
もともと男鹿半島はほぼ島であった。
当時、日本海に浮かぶ男鹿の孤島には険しい本山と真山がそびえ、常に烈しい日本海の灰緑色の荒波に洗われていて、外敵を寄せ付けなかったし、外部の侵入も許さなかった。
いわば男鹿は、自然の天険に守られた、神と「なまはげ」の住まう神秘の孤島であったのだ。
それが、
1978年には国の重要無形民俗文化財となり、
こうなるともう外からいろんな連中が押しかけてくるし、男鹿半島は観光と商売の餌食となってしまう。男鹿の地に住む「なまはげ」もタダでは済まない。
いや、すでに男鹿半島は観光地と化し、なまはげはショーのアトラクションとなってしまっているかもしれない。
男鹿が観光地化する以前、八郎潟も埋め立てられる前、
1957年、岡本太郎は男鹿半島を訪れ、芸術風土記(新潮社)に、アトラクション化する前の男鹿半島について記しているが、
そこで男鹿半島の厳しい自然の神秘について次のように語っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あけ方、汽車の窓から外をながめ、ぞっとして胸をそらせた。
暗い灰緑色の海が、重なる山脈のようにそばだち、幾重にも幾重にも、泡立ち、のたうちながら眼の前に迫ってくる。
その荒れた様は声も立てられない凄まじさだった。
よく見ると、弓形にえぐられた入江の片隅に、低くうずくまった漁師の小屋が、吹き寄せられたように、薄く雪をかぶってかたまっている。まるで今にも呑み込まれるのじゃないかと思われる。
はじめてみる冬の裏日本。そのきびしい気配にうたれ、私はこれからふみ込んで行く天地、風土に、身のしまる思いがした。それは快感でもあった。
秋田駅に着く。「どうも、昨日からぐんと気温が下がって」と、気の毒そうに迎えてくれた県の観光課の人と一緒に、つきさす吹雪と寒気の中を宿に落ちついた。
建物全体が風にゆり動いている。海からジカに叩きつけてくる猛烈な突風である。硝子ごしに見る中庭の樹や石に積もった雪が、狂おしく散り飛び舞い上がっている。
泣きじゃくるように低いうなり声がする。それが急に甲だかく高まり、まるで妖怪の叫びのように、家の棟をわたる。嘆き、訴え、悲しみと苦しみにのたうち廻りながらしぼり出すような、奇怪な余韻。
激しい風の音はどこでも聞く。しかしこのように、どん底からの不気味な声はかつて聞いたことがない。つれの者が、「なまはげの鬼のうめき声はきっとあんなでしょうね。」ともらした。
(中略)
ところで、秋田ほど東京から遠いところはない、という感じはある。
雪の壁は深く、ここには別の時間が流れているようだ。私の主張する芸術と、いったいどういう関係があるか、いささか絶望的な気がしないではなかった。
だが私はこのような、いわばとり残されたところに、古くから永遠にひきつがれてきた人間の生命の感動が、まだなまのまま生き働いているのではないかと思った。
たとえば「なまはげ」の行事などに。
(ここまで)
フィクサーたちの秘密⑮ 白子の菊右衛門
いままで日曜日にブログを書いていましたが、最近は月曜日の夕方に書く時間を空けているフミヤスです。日曜日に書くと地方やイベントへの遠征が多少制約される。それで月曜日に仕事を早めに切り上げてブログに取り組むことにしたら意外とよいことがわかりました(^^)
閑話休題!
池波正太郎の鬼平犯科帳に「白子の菊右衛門」という大物の香具師(やし)の元締めが登場する。
香具師というのは江戸時代に全盛を極めた露店や見世物の商売人のことである。映画『男はつらいよ』の寅さんの職業はテキヤであるが、テキヤと昔の香具師はほぼ同業である。
香具師やテキヤの仕事場は門前市や盛り場だが、そこは麻薬を含むであろう怪しげな薬やインチキな品も出回り、いかさま師や無宿人のたまり場でもあった。
的屋(まとや)で、客の放った矢が的に当たると、太鼓を打ち鳴らして「あたぁ〜りぃ〜」と声を上げる女を矢取り女(やとりめ)というが、矢取り女は飛んでくる矢を掻い潜りながら的に刺さった矢や落ちている矢を拾い集める。客も面白がって矢取り女を追うように矢を放ったりしたのだろうが、そんな遊女たちを食いものにしていくのも香具師やテキヤが多かった。
それで「香具師の元締め」といえばテキヤの親分やヤクザの親分とほぼ同義である。
ちなみに現在も警察はテキヤを暴力団の起源の一つと定義しており、テキヤ系の暴力団も極東会や飯島会など多々ある。
鬼平犯科帳に登場する白子の菊右衛門は、大阪堺筋通り北久宝寺町に住む大物の香具師の元締めである。
鬼平犯科帳の『暗剣白梅香』(第1巻)では、白子の菊右衛門は、凄腕の浪人・金子半四郎を拾って汚れ仕事をさせていたところ、他の香具師の元締めから頼まれて、この金子半四郎を使って長谷川平蔵を暗殺しようとしたこともある。
また鬼平犯科帳の『麻布ねずみ坂』(第3巻)では、指圧の名人・中村宗仙が京都で知らずに白子の菊右衛門の妾・お八重と深い仲になってしまう。
白子の菊右衛門も、中村宗仙を殴る蹴るはしたものの、素人が知らずにしでかしたこととしてその場で殺すことはせず、宗仙にお八重を売ってやるから五百両を作れと命じたのだった。
ただし五百両の支払いには期限が定められ、それがすぎたら女も宗仙も殺すという条件付きである。
ここのところを、池波正太郎は次のように描いている。
新設!マザーミッションの理念
山内俊夫理事長 (元文部科学副大臣・参議院議員) 三井倶楽部にて
一般財団法人ジャパン・マザーミッション機構(山内俊夫理事長)に理念が宿った。
この財団は、「水上治先生を囲む会」のメンバーが中心となって、まさに今月(令和2年1月1日)スタートしたばかりである。
だからこの財団は、水上治が提唱する「日本型医療」つまり「愛と和の精神」を全国に発信し、さらに世界に発信し、世界の医療を変えて行こうとする発信基地である。
さらにこの医療の変革を突破口として、5000年にわたって競争と戦いに塗り潰されてきた世界の精神そのものを、日本人が持つ「愛と和の精神」に塗り替えて行こうとする前線基地でもある。
以前もご紹介したが、この財団の主なメンバーは以下のとおり。
副理事長 大谷雄策((財)国際健康医療研究所代表理事)
理事 岡山大輔(弁護士・カイロス総合法律事務所)
理事 宮澤 彰((株)危機管理室社長)
理事 大島博貴((財)国際健康医療研究所理事)
理事 松本英稔(本財団設立準備委員)
監事 坂上芳洋((財)日本総合戦略研究所理事長)
理事長の山内俊夫、監事の坂上芳洋、2人とも叙勲の受章者である。
ご覧のとおり、メンバーには(財)国際健康医療研究所の代表理事、日本最強の弁護士事務所、日本最強の税理士事務所、警視庁関係の大物などが参加している。
ご存知、坂上芳洋は防衛省のドンで、日米合同演習の日本側総司令である。
なんか凄くないだろうか?
この財団がスタートした本年1月1日、山内俊夫理事長が財団の挨拶を述べている。
禁酒するか
先週、名古屋の講演会で日本人とは何かを語る水上治理事長
年末年始のアルコールづけと多忙とで、ここのところ体重が非常に気になっていたが、昨日、ひさしぶりにジムに行ったら90㎏になっていた。
ガタイも大きいので太っているようには見えないけれども、しかしおれのベスト体重は80~85㎏。
少なくとも至急5㎏は減らさなければならない。
まずジムには頑張って通うとして、あと美食とアルコールの問題だが・・・
うめちゃん、こと、美断酒日記の梅田かおるさんからもかねてから断酒を勧められていたこともあるし、思い切ってしばらく禁酒するか?
しかしおれが禁酒すると、大谷さんや水上先生が寂しがるだろうなあ。
やっぱり無理だな(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先週の水上治理事長の名古屋講演の写真が届いた。
最初に挨拶に立った大谷雄策代表理事
そして水上治理事長の登場。
水上治、この男はどこまでもスターである。
水上治講演会 IN 名古屋
昨日、
水上治ムーブメントの第2回目の講演会が名古屋で開催された。
朝、水上先生、大谷さん、おれ、関係者2人の計5人で東京駅を出発して名古屋に向かったが、新幹線の中ですでに水上治の講演会ははじまっていた(笑)
医療の発達によって人間の寿命は著しく伸びたが、それによって退職後も老後も著しく長くなり、それはよいことなのだが、その結果かえって孤独で辛い人生を歩む人が急増し、医療費も大膨張している現実。その矛盾。
どうやって人間の生きがいの重要性を認識していくか、人類は生きがいを見出していけるか。
医療費のかからない、しかも生きがいのある人生を歩むには?
名古屋に到着し、ファンのみなさんとゆっくりランチ会食し、そして講演会は13時に開場、13時30分に開演した。
会場には300人近くの水上治ファンが押し掛け、まず国会議員の工藤彰三さん、それから県会議員の直江弘文さんが前振りで挨拶し、それから水上先生の登壇となった。
2か月前の広島講演がこのムーブメントの最初の講演会だったが、そのときは200名弱で、前振りの挨拶も広島市の市会議員だったから、この2カ月でえらい出世をしたことになる(笑)
水上先生の話はまず世界の医療を覆っている西洋医療の実態の話からはじまった。
水上治は語る。
あけましておめでとうございます。年頭のご挨拶
年頭のご挨拶
今年は超多忙なのでごく簡単に(笑)
あけましておめでとうございます。
フィンランドの国営放送によると、昨年末のクリスマスでは、世界の権力を持つ大人たちが周りの人や動物や自然に優しくしなかったためにサンタクロースのプレゼントがとても少なかったそうです。
今年は、年末のクリスマスには、エベレストの山のようなプレゼントが雪崩の如く世界中の子どもたちに届くように、この1年、力を合わせて気合いを入れよう。
今年もよろしく!(^^)v