furutorifumiyasu’s diary

人間と世界を動かしている秘密と真相を勝手に書いていきます。 このブログには実在の政財界のフィクサー、実力者、著名な実業家、メスネコなどが登場します。

最高峰のホテル・アマン東京の加藤社長の挨拶より・・・本物の成功の秘訣

 

 

 

 

今日は軽井沢の手前、妙義山妙義神社に寄ってきた。

 

妙義神社のHPには、そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて・・・・・・云々、と余計なことが書かれてあるが、

 

妙義神社の創建は西暦537年とあるので、後醍醐天皇よりはるか昔に、古代大和政権が縄文人の毛の国(群馬県、栃木県、埼玉県)と交流していたころ、すでに毛の国の人々(縄文人)がこの地を聖地・霊場として崇敬していたことになる。

 

 

 

神社の境内は、後に大和政権の歴代天皇徳川幕府によって崇敬されて石垣などが整備され、神社というより戦闘能力のある城郭そのものである。

 

それは元々の地形を整備してそうなったはずだから、妙義山はもともと縄文人の聖地・霊場であるとともに縄文人の城郭であったと思われる。

 

 

 

妙義神社の本丸の石垣、この階下にさらに二重三重に石垣が張り巡らされている)

 

 

 

そしてその通り、この妙義山全体が、弥生人・大和人のものではない、縄文人の霊峰のパワーをひしひしと感じさせてくれ、こころを洗わせてくれた。

 

妙義山麓の蕎麦屋で食べた蕎麦も驚くほど美味かった。素材にパワーがあって蕎麦が生きている感じだ。

 

 

 

ところで、霊峰妙義山によって縄文人のパワースポットを感じ、こころが洗われたので、今日はこのことにちなんで、このブログを読んでくださっているみなさんに能力開発の極意を開示しましょう。

 

世の中にはたくさんの能力開発法や成功法則がある。それこそ古典のナポレオンヒル中村天風安岡正篤、ジョゼフマーフィー、デールカーネギーから、「7つの習慣」のスティーブンコヴィー、実際に事業を成功させてきた松下幸之助井深大、現役の稲盛和夫さんや斎藤一人さんなど成功法則の提唱者は数え上げればきりがない。

 

それぞれに多くの人材を教育したり、歴代総理を指南してきたり、世界を支える大企業を育てたり、金持ちになったなど実績もある。

 

 

 

しかし能力開発や成功法則を実践しようとするアタマの考えと自分の潜在意識の性向との間にズレがあると、潜在意識のパワーのほうが強いから、なかなか成功法則をうまく実行できない。そういう経験はないだろうか?

 

成功法則に従ってアタマで考えぬいて、「よし!今後はこうしよう!」と強く決意しても、無意識に、違う性向を持つ潜在意識に引きずられて自分の決意と反対の行動へと動かされていたりする。

 

 

 

しかも潜在意識というのは、長年の思考や行動の積み重ねによって強固に形成されている。また潜在意識には生まれてすぐから両親から無意識に吸収し続けて身についた先祖伝来の強力な習性(ときには悪習)もある。

 

だから潜在意識はなかなか変わらない。アタマでいくら考えても変えられないと言っていい。

 

どうしたらいいのだろうか?

 

 

 

その答えはすでに多くの聖人が提示している。すなわちアタマで考えるのではなく、別の方法で潜在意識を変えるのである。

 

どうするかというと、アタマを使わず、お経や真言成功哲学の言葉を何回も唱えて潜在意識に沈めていって、アタマではなく身体で覚える、身体で身に着けていくのだ。

 

これは潜在意識を変えるためには有効である。

 

(禅によって自らの潜在意識の思考回路を破壊して、直接に生命(身体)を表出させる方法も有効だが、これは後日機会があれば言及したい。)

 

 

 

しかしここで問題が起こる。

 

アタマを使わず、お経や真言成功哲学の言葉を何回も唱えて身体のほうから潜在意識を変える方法は有効なのだが、

 

実際には潜在意識を構成する要素はそう単純ではないのだ。

 

潜在意識には、自分のマイナス思考の繰り返しによって形成された要素や、両親のマイナス思考を子どものころから引き継いで形成された要素など、変えたほうがよいものも多いが、

 

しかしじつは同じ潜在意識の中には、それぞれ各人の生命から発して形成された天分ともいうべき素晴らしいプラスの要素もあるのだ。

 

 

 

潜在意識の中のマイナス要素を解消しようとして潜在意識に沈めて行った言葉(哲学)が、その素晴らしいプラスの要素までも解消してしまったら元も子もない。

 

実際には自分の潜在意識の天分ともいうべきプラスの要素はなかなか強いから、それと対立する成功哲学の言葉がどんどん潜在意識に沈んでくると、潜在意識内で対立が生じて自己矛盾・自己破壊へと進んだりする。

 

 

 

そう!

 

潜在意識に沈めるべきお経、真言成功哲学などの言葉は、自分の潜在意識の天分に合わせて厳選しなければならない。

 

いったいどんな言葉を選べばよいのか?

 

 

 

そこでヒントです。

 

なぜおれが友人たちと共に文化団体や財団を設立して、日本人の愛と和の精神の回復・深化を提唱していると思いますか?

 

 

 

その答えは、

 

われわれ日本人の生命から発してわれわれ日本人の潜在意識に形成されている天分は、縄文日本人から続く愛と和の精神を基盤としているということにある。

 

同じ成功哲学でも、書店やネットに氾濫している欧米ユダヤ系の成功哲学は 「勝つ」 「儲ける」 「金持ちになる」 「成功者になる」 「セレブになる」 などを直接の目的としたものが多い。愛や調和を提唱していたとしても、それは勝つため儲けるための手段や戦略にすぎない。

 

彼らの営業妨害をするつもりはないが、しかしこれら欧米ユダヤ系の成功哲学は日本人の潜在意識の天分と葛藤を起こす。正反対なのだ。

 

中には日本人の天分、美徳をかなぐり捨ててユダヤ人ばりに 「勝つこと」 「儲けること」 に邁進する人もいるが、結局は最終的には自己矛盾を起こして破綻する人がほとんどだ。

 

 

 

黒澤明の古典映画「隠し砦の三悪人」では、欲に突っ張った農民が何としても金塊を手に入れようと命がけで悪戦苦闘し、一時は大金塊を手中に収めたかに見えたが、結局は駄賃の金貨1枚しか貰えない。

 

ご存じのとおり同じようなストーリーの作品はじつに多いが、これらが笑えるのは、それが人間の潜在意識の真理だからではないだろうか。

 

とくに日本人は、ユダヤ流の欲や勝ち負けではなく、縄文時代から培われた愛と和の精神からこそ真の成功へと導かれる。

 

われわれ日本人は愛と和の成功哲学を言葉として選択すると潜在意識と和合して物事が実現しやすいのである。

 

 

 

あえて、誤解されることを恐れず、超単純に言ってしまえば、

 

仏典はあまりにも増えすぎたが、なかでも釈迦本人が述べている言葉は愛と和の精神である。旧約聖書ユダヤ教なので神への信仰を強調するあまり愛と和とは対立する要素も多い。新約聖書はキリストイエスの言葉なので愛と和の要素が多い。

 

デールカーネギー、スティーブンコヴィーなどは、戦略的な要素もあるが、愛と和に立脚する要素も多い・・・・・・等々である。

 

 

 

ちょうど今日、おれの尊敬する友人(先輩)の加藤正迪さん(アマン東京社長)の挨拶文が、文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」に掲載された。

 

アマン東京と言えば、海外のビップや著名人が常時滞在し、「夢のような時間を」とか「最高のおもてなしを」というフレーズで知られる最高峰のホテルだが、社長の加藤正迪さんはそういうフレーズにふさわしい、謙虚で温かい人物だ。

 

 

 

ちょっと横道に逸れるが、一昨日の金曜日も(財)日本総合戦略研究所の定例会があって、加藤社長と坂上芳洋理事長とおれの仲良しトリオがそろったが、考えてみるとこのトリオは何とも異色な組み合わせだ。

 

おれは、まあ、ろくなもんじゃないからおいておいて、この二人について言えば、

 

加藤社長は上記のように世界のビップが集まる、「夢のような時間」をおもてなしする最高峰のホテル、アマン東京の社長。人物も温厚で立派、東京とハワイに住居を構える、世界のセレブの代表のような人である。

 

一方、坂上理事長は防衛省のドンで日米合同演習のときの日本側の総司令官。世界のミサイル防衛をリードし、泣く子も黙る「べらんめえ提督閣下」である。イージスアショア導入問題など、疑問があれば相手が内閣と言えども怯まない。

 

なんともこの二人は 「戦争と平和」 みたいな組み合わせなのだ(笑)

 

 

 

今週もまた講談社の「現代ビジネス」にイージスアショア導入問題について坂上理事長の特集が組まれる。

 

安倍政権と防衛省は何とかこの問題に蓋をしようと躍起だが、坂上理事長が火をつけて回っているので、そうは問屋が卸さない。

 

しかも防衛省の幹部たちはかつて圧倒的な迫力の坂上理事長の部下だったので、誰も坂上理事長に鈴をつけられない。そうこうしているうちにマスコミが動き出してしまったわけだ(笑)

 

 

 

さて、閑話休題

 

 

われわれ日本人が日本人の潜在意識と和合して成功するために、

 

最後に、文化団体 「日本の文化伝統そして日本人のこころ」 に今日掲載されたアマン東京の加藤社長の挨拶文をご紹介します。

 

 

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日本には縄文時代から続く素晴らしい文化があります。

 

その文化は、かつて画家の岡本太郎さんが指摘されたように、日本人特有の繊細さと独創性に満ちています。

 

太古、縄文時代から続く日本人の愛と和の精神がその由縁でありましょう。

 

わたしたちがお客様への「おもてなし」にこころを砕くとき、そのような愛と和の精神に裏打ちされた心づかいが大きく寄与します。

 

それは、優美さ、凛とした潔さ、静けさ、微笑み、細やかな心配りとなって、お客様へのおもてなしをより深めていくのです。

 

世界でもっとも優美に細やかにお客様をおもてなしすることができるのは、このような文化に恵まれた日本人のこころではないかと思います。

 

わたしたちの文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」が、この日本人の愛と和の精神を、そしておもてなしのこころをより深く探求し、

 

これをもってわたしたちをより深い感動と歓びと成功にいざない、多くの人々の幸福に寄与していくことを願うものです。

 

 

日本の文化伝統そして日本人のこころ理事相談役 

加藤正廸 (アマン東京代表取締役社長)

 

 

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以上。

 

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人生意気に感ず・・・意気に感じなければ本物の仕事ではない・・・水上治の世界

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昭和大学教授の佐藤均さん 会食のレストランにて)

 

 

 

今週もいろいろなことが山のようにあったが、だからこのブログも毎週1回日曜日くらいしか書く時間がないのだが(笑)、

 

なかでも(財)国際健康医療研究所理事長の水上治さん、同じく代表理事の大谷雄策さん、昭和大学教授の佐藤均さんとおれの4人で初会食したことは特筆すべきだ。

 

 

 

先月のおれのブロブ記事「月光荘のおじさんNO3の前振りでちょっと触れたが、

 

昭和大学教授の佐藤均さんは東大卒、アメリ国立衛生研究所の研究員、スイス・バーゼル研究所の客員研究員というキャリアを持つバリバリの研究者である。

 

そのときおれは佐藤均さんを友人から紹介されたのだが、初対面で気が合った。おれのテーマである 「縄文日本人の愛と和の精神」 「東日本大震災における縄文の精神」 「日本型医療の必要性」 なども考え方が一致した。

 

それに偶然だが、佐藤均さんはわれわれ(財)国際健康医療研究所の水上治理事長とは日本臨床カンナビノイド学会で「医療用大麻」について共に研究していた仲で、水上理事長を尊敬していたのだった。もちろんお互いに気心が知れている。

 

 

 

医療用大麻は麻薬と混同されがちだが、日本人の精神の源流である縄文文化と日本人を支えてきた重要な要素である。このへんの議論もぜひ深めなければならない。

 

それでこんど一緒に会食しようということになって、それが今週だったわけだ。

 

 

 

人生意気に感ず、とは、かつて大唐帝国の宰相を務めた魏徴が晩年に詩で告白した真情であるが、

 

4人の会食もまた、縄文日本人の愛と和の精神に一致する思いに、お互い大いに意気に感じたのであった。

 

なにしろ会食のその場で、佐藤教授の研究テーマである「医療用大麻の研究」を(財)国際健康医療研究所の主要テーマに加えることが決まり、佐藤均教授の当財団理事就任もその場で即決で決まった。もはや評議員会も理事会もあったものではない(笑)

 

これぞ人生意気に感じたパワーである。

 

 

 

さらに、ちょうど先週のおれのブログ記事「(財)国際健康医療研究所HP・・・論客・水上治の世界」に、アメ友のナツコさんから素晴らしいコメントを頂いていたので、会食の席上みなさんに開示すると、みんな大いに感銘を受けた。

 

ナツコさんから頂いたコメントをちょっとご紹介させていただくと以下の通り。

 

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素晴らしいですね!
私は過去に日本の生薬を使った温熱療法やヨーロッパのホメオパシーの資格を取り、今はメディカルアロマセラピーの勉強を始めようとしていますが、古来からの自然療法で安全性も歴史が証明しているものでありながら薬事法で縛られ、保険が利かず、何か事があると、それらエネルギー療法といえるものを得体の知れない非科学的なものとしてメディアでめちゃくちゃに叩かれる、というのを見てきました。
がん末期の患者さんの家族が、最後まで諦めずに少しでも楽になるようにと取り入れたいと言っても、病院内で使われるのは迷惑だ、と断られたりすることもありました。
日本には他にもたくさんの民間療法があり、患者さんの希望するものを取り入れてあげられるよう、現代医学の先生方がもっと民間療法について知り、まなび、取り入れるまで行かずとも、民間療法の医療者と手を組んで、本当に患者さんと家族の幸せを考えてあげられるような社会になってほしいものです。
そういう和洋の統合医療を目指す友人もいます。
日本の医師会の方々がそのような動きをされて行くのは明るいニュースですね!
そして、ルックイーストや、日本人の在り方についての呼びかけ、心が震えました。

ナツコ2019-03-13 02:40:37       

 

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これを受けて財団理事長である水上治さん曰く。

 

「このようにわれわれと同じ考えを持つ人たちが市井に大勢おられて、率直なコメントを頂ける。何とも嬉しいことではないでしょうか。われわれはこのナツコさんのような方々のためにも頑張らなければならない!」

 

というわけで、一同、同じ思いでいちだんと盛り上がった。

 

 

 

ちなみに魏徴の詩は、「人生、意気に感ず」のあとに「功名誰かまた論ぜん」と続く。

 

人生意気に感ずれば、手柄も金も名誉も論ずる必要がないということである。

 

そういうことを計算しなくても、人生意気に感じて仕事にまい進していれば必ず生かされるし、困難に遭遇しても必ず道が開ける。逆にいくら名誉や金を計算しても意気に感ずることがなければ必ず行き詰まる。

 

事業であれば、ユダヤ・ヨーロッパから来た銀行屋や証券屋や財務省などのインチキの仕組みのせいで、どうしても計画を立て、資金繰りの計算をしなければならなくなった。しかしそんなことが優先していては本物の仕事はできない。

 

まあ法制上仕方ないから計画を立て、資金繰りを計算するとしても、常に優先して「人生意気に感じて」仕事に取り組むことが本物の仕事をなさしめるのだと思う。

 

 

 

改めて魏徴のその詩「述懐」を見てみるとさすがに名文である。フミヤス流に勝手にアレンジしたら以下のようになった。

 

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かつて天下が戦乱となったとき、おれは文筆を捨て、軍隊に身を投じた。


無念にも天下を統一する計略は成らなかったが、その志は永遠に変わることはない。


老いた今でも、もし国家に一大事あらば、すぐさま天子に謁見して戦略を献じ、馬を駆って函谷関を出陣し、冠の紐で南粤王を縛り上げ、天下の無事平定のために最後のいのちをかける。


進軍はるか、曲がりくねった道を高い峰へと登っていけば、はるか東に平原が見え、静寂の中、古木には冬の鳥が鳴き、暗闇の夜の山には猿が啼く。


故郷を思って千里の彼方を見る目も傷み、わが魂は何度も故郷の家族友人のもとへと飛んでいくことだろう。

 

おれとて険しい道が好きなわけではない。

 

しかし如何に険しく、困難が待ち受けようと、御恩への感謝報恩の激情が己の魂を突き動かすのだ。


季布(漢代の侠士)は一度受けたことは命に代えても実行し、侯生(戦国時代の侠士)は一言の約束を重んじてわが命をささげた。

 

人生は意気に感じて事を成すのである。手柄や出世などそんなものは誰が気にかけよう。

 

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魏徴は大唐帝国の皇帝太宗(李世民)を二百回余りも諌めたのであり、

 

魏徴が逝去した際、皇帝太宗は、「人は、人を以て鏡と為し、己の衣冠を正すべし。魏徴の沒するや、朕、鏡を失えり。」と言って嘆いたという。

 

 

 

こうして、この日、われわれ(財)国際健康医療研究所もまた、佐藤均教授の参加によって、またナツコさんから頂いたコメントによって、さらに魏徴の詩によって、大いに人生意気に感じる日となったのだった。

 

 

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(財)国際健康医療研究所HP・・・論客・水上治の世界

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(財)国際健康医療研究所の、新たなホームページが出来上がった。

 

この財団は、昨年、医学博士の水上治さんや財界人の大谷雄策さんたちと一緒に立ち上げたもので、ホームページも昨年末にはいったん出来ていた。

 

ところがその後、デザイナーの強い希望があってより本格的なHPに全面改装することになったり、そのあいだに(財)日本総合戦略研究所の坂上理事長がイージスアショアの導入問題で安倍政権や防衛省の幹部を叱り飛ばしてマスコミが騒ぎ出したり、月光荘おじさんと出会ったりして、ご案内が先送りとなっていた。

 

しかし、先週までに新たなHPの体裁も整い、月光荘おじさんも区切りがついて、イージスアショア問題はまだ燻ぶっているけれど、まあ、ほぼちょうどいいタイミングで、本日、(財)国際健康医療研究所の新たなHPをご案内できることとなりました。

 

 

 

そもそも(財)国際健康医療研究所とは何なのかというと、基本的には日本型の医療(メイドインジャパンの医療)を確立し、世界へ発信していくことを目指す団体である。

 

しかし、この団体は、日本型医療を確立していく過程を通して、医学医療の枠を超えて日本人全体の、あるいは日本人そのものの、さらには人類そのものの21世紀の道しるべの役割を果たすかもしれない団体でもある。

 

またそれだけの仕掛けも準備している。

 

おれが書いた 「はじめに」 はさておいて(笑)、まずは水上治、大谷雄策、久保明という3人の論客のご挨拶文をぜひご覧ください。21世紀の道しるべとなるヒントが隠されていると思います。

 

 

 

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はじめに (古鳥史康)

 

日本人のこころは、わたしたちの住む日本の地で2万年にわたって育まれてきた愛と和の精神です。自己主張をせず、周囲との平和を好み、宇宙や自然とも一体感を持っています。
岡山大学山口大学の研究によると、世界の各民族の死因のうち、海外の民族では暴力による死亡率がいずれも10%以上ありますが、日本の縄文人の暴力による死亡率はわずか1%台でした。
最近のDNAの解析でも、文化や民族それぞれの特質がより明瞭になり、とくに日本人は愛と和を尊重する特質を持つ民族であると考えられます。
日本人の愛と和の文化は、閉塞した世界の文化を新たなステージに進化させる原動力として大きく期待されています。

 

医療の面においても、日本には日本人の特質に合った、愛と和の調和する、自然とも調和する日本型の医療があるのではないでしょうか?
ここで日本型医療が確立されるならば、それは同時に世界から待望される新たな医療の根幹となると確信します。
一般財団法人国際健康医療研究所は、水上治理事長、大谷雄策代表理事久保明副理事長を中心として日本型医療を確立し、世界の最先端医療を止揚し、人類の医療を新たなステージへと進化させる原動力となるでしょう。


いま、その大きな計画がスタートしました。

                            顧問 古鳥史康

 

 

 

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理事長ご挨拶 ≪日本型健康医療を提唱する≫ (水上治)

 

健康はまぎれもなくこの世の最上の善であり、ほかのあらゆる善の基礎である。(ルネ・デカルト 方法序説

 

1.健康とは
WHOの健康大憲章を引用するまでもなく、健康とは、単に肉体的精神的な良好状態だけではなく、社会的かつ霊的な(スピリチュアルな)良好状態を指します。病院に縁がないから健康であるのではなく、37兆の全細胞が完璧に機能している、病名がつくような病気がなく、殆ど風邪もひかない、仕事や勉強に積極的に取り組んでいる、家庭や学校、職場という自分が所属するコミュニティの中で支え合い助け合って過ごしている、生きていて幸せである、そして何歳になってもささやかな夢を持ち続けている、これらが我々の目指す高い次元の健康です。

 

2.医師法が高らかに宣言する「健康医療」
医師の任務として、医師法第1条には、「医師は、医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するものとする。」とあります。
医師がこれをしっかりと実践していたら、日本人はもっと健康であったはずです。病気になってからの治療では、間に合わない人が続出し、医療費が際限なくかかります。医療の原点は間違いなく、「公衆衛生の向上と増進」です。これが当財団の提唱する「健康医療」です。人間丸ごとを一体として捉え、病気にかからない生活習慣を指導し、病気になったとしても、できるだけ早くに見つけ、健康レベルを向上させることで、病気の進展を防ぎ、改善を目指します。

 

3.日本型医療とは
日本は縄文文化に起源をもつ、「愛と和」の国です。当財団は、「愛と和」に基づいた「日本型健康医療」を提唱します。今までは医師主導型医療でしたが、十分な医療情報の共有の中で医師と患者は時間をかけて話し合い、患者本人の意見や気持ちを尊重しつつ、本人にとって最適な「健康医療」を共に力を合わせて「創造」していくのです。互いが「愛と和」の精神を持ち続ければ、必ず最適の医療が構築できます。そこには、欧米のような医師・患者間のトラブル、訴訟多発はあり得ません。欧米の医療が最高だという常識をそろそろ捨てて、日本が発明した数多くの新技術も含め、我々は「日本型健康医療」を世界に発信する時がついにやって来ました。

当財団は、日本そして世界の医療を根本から変えたいのです。富山と金沢にある浦田クリニックをモデルにして、東京を初め、全国に医療施設を創り、地域の人たちをより健康にします。世界中から患者を集め、世界に当財団の理念に基づいた医療施設を創っていきます。

「愛と和」を根底に置いた「日本型健康医療」を共に創っていきませんか。

「日本は世界に於て、只特殊性・日本的なものの尊重だけではいけない、そこには真の文化はない。自分の作ったものが自分と離れ公の物として我々を動かすと云う様に、日本文化は世界的にならねばならぬ。つまり自家用の文化ではいけない。自ら世界的な文化を造り出さねばならぬ。」(西田幾多郎 日本文化の問題)

                           理事長 水上 治

 

 

 

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代表理事ご挨拶 ≪ルック・イーストを考察する≫ (大谷雄策)

 

いま、世界のGNPは中国が台頭し、世界経済はアメリカと中国の二大国時代に突入した感があります。しかし、それにもかかわらず、日本の文化は世界の人々から熱い視線で注目されています。

 

ルック・イーストという言葉は、マレーシアのマハティール首相が1981年に提唱したものですが、日本人の倫理観、忠誠心、労働規律、労使間の協調など、いわば日本人の精神に学ぼうとする思想であると言ってよいと思います。

このルック・イーストの思想は、1990年以降にその日本の経済が大低迷時代に突入してアメリカや中国の後塵を拝するようになっても、現在に至るまでじつに40年近くも、変わることなく、マレーシアの人々のこころに根づいています。

また、このルック・イーストに見られるように、日本の精神と文化に期待しようとする潮流は、マレーシアから世界に発信されて喚起されたケースも含めて、世界の多くの国々で自然発生的に生まれ、より強く大きくなろうとしています。2014年に、インドのナレンドラ・モディ首相は「ルック・イースト政策の中心に日本がある」と述べています。

 

いま期待されている日本人の精神とは、2万年にわたる縄文文化から形成されてきた愛と和の精神であると思います。それは、和を尊び、周囲との協調と平和を好み、忠誠心を持ち、自然とも調和して生きてきた精神です。まさにマハティール首相がルック・イーストで求めた精神ではないでしょうか。

わが財団理事長水上治が述べているように、欧米型の医療は医師が患者を対象物として捉え、ある意味一方的に病巣を切ったり貼ったり、病原をせん滅しようとします。自然を征服するのです。しかし日本人は日本人の精神を基にして、病巣をえぐり取るのではなく、人体という小宇宙を大自然という大宇宙と調和させることによって、自然治癒力で病気は治る、という医学体系を築いてきました。

しかるに、日本では明治以来いまだに西洋医療が医学界の主流をなし、日本的医療は蔑ろになっています。いまこそ医療の分野においても、ルック・イーストを再認識する必要があるのではないでしょうか。

われわれ一般財団法人国際健康医療研究所は、水上治理事長を中心として日本型医療を確立し、新たな日本型医療によって世界の最先端医療とアウフヘーベンし、世界のルック・イーストに応えて世界へと発信して参るものです。まさに日本の文化と日本型医療は世界のための文化と医療でなければならないのです。

代表理事 大谷雄策

 

 

 

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副理事長ご挨拶 ≪日本型健康医療を推進する事業展開について≫ (久保明

 

超高齢社会となった日本で、健康寿命を延長することは最大の健康課題ではないでしょうか。
従来の生活習慣病動脈硬化性血管障害(脳卒中心筋梗塞など)、がんにくわえ、認知症、フレイル(虚弱状態)への早期の対策が求められます。
私達「国際健康医療研究所」は日本の健康の質的向上(ウエルエイジング)を担う組織として作られました。


・ 地域にねざした予防、健康増進の実践。
・ エイジング(加齢)の指標を用いた新しいドックの開発とデータセンター設立。
・ 具体的な栄養(サプリメントも含む)、身体活動、マインドフルネスなどの実践と、フォローアップデータの確立。
・ 医療健康情報が氾濫するなかで、がん難民とよばれるような人々へのコンサルティング機能の遂行。


これらの課題を解いていくには、健康医療領域のみならず、異なる専門性の統合が不可欠です。
生活習慣病・エイジング領域を中心に、大学から前線の施設にいたる多くの場所で活動してきた自分にとって、集大成とも言うべき本財団の設立に当たっては尊敬する水上理事長、大谷雄策代表理事、古鳥史康氏はじめ多くの方々との“縁”がありました。
趣旨に賛同される方、企業、市町村の積極的な関わりを心から求めています。
10年後、健康寿命が確実に伸びることを目指して!

副理事長 久保明

 

 

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→ 一般財団法人国際健康医療研究所

澤田政廣・・・生きていて、動きの速度を感じ、真剣勝負の迫力がある

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 蓮 華 (木彫り) 1983年、澤田政廣89歳

 

 

 

昨日、北埼玉にある創作料理屋 「あまの川」 に寄った。

 

以前一度寄ったことがあって、とても美味かったのを憶えていたのだが、今回もやはりとても美味かった。

 

 

 

安倍政権最強のフィクサー T先生が何年か前に買いとった近県の料亭は、800坪の敷地に広壮な和風建築を有して、門の両側には大きな高張り提灯を掲げており、吉兆の料理長と金田中の女将が顧問について、日本でトップクラスの選り抜きの料理人や女将や中居たちを送ってきているが、

 

その壮大な舞台装置にもかかわらず、料理の美味さはここと変わらない(笑)

 

というか、ここの料理は吉兆や金田中とも変わらない。

 

 

 

ウェイトレスが憶えていてくれたので、あらためて美味いと褒めると、料理長の渡邉州次郎さんがテーブルに挨拶に来られて、思わず楽しい話が弾んだ。

 

美味いはずで、彼は金田中や紀尾井町の福田家などと縁があって、そういうレベルの修行をしてきているのだった。

 

 

 

おれが誰だか半分わからないようにしながら半分わかるようにするのは難しい。

子供の落書きのようになってしまった。

あまの川で、料理長の渡邉州次郎さん(右)と。

・・・甚平のまま行ったので何者かと思われたかもしれない (笑)

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

先週、熱海の       澤田政廣記念美術館に行ってきた話である。

 

前回ちょっと触れたが、彫刻家・澤田政廣の作品は、その造形から発する生命力、動きの速度、真剣勝負の迫力などが、いずれも圧倒的な量感であった。

 

とくに89歳の作品 「蓮華」 がわれわれに働きかける速度には気圧される思いすらした。

 

また彼の文章に触れると、ロダンにもピカソにも一歩も引けを取らない、これぞ世界に冠たる日本人の芸術、いのちの芸術であるという感慨を得るのである。

 

 

 

澤田政廣は語る。

 

 

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

西洋の美術に比べると、日本の美術は、いかにも生きているという感じが強い。

 

東洋人独特の、非常に鋭い、デリケートな性格を有しているせいか、ノミや筆のはしりかたが、生きていて、作品自体が生き物である。

 

東洋の芸術は、心の芸術である。

 

日頃からそれなりの素地をつくり、常に破壊し、自分を組み立てていく。

 

若い人は若い人なりに、壮者は壮者なりに、作家の魂は (変化しながらも) 生き続けていかねばならない。

 

常に生活の中に動いているものでなければ、芸術ではない。

 

 

 

私は、今の時代を背景とした作家的態度で仏像をつくりたいと思うんです。

 

宗教家としてではなく、近代芸術家としての訓練の結果を仏像に表現したい。

 

近代の心がにじんだ仏像、言いかえれば過去と自分の勉強した近代と、次の時代までつながっていく仏像をつくりたい。

 

そんな野望を持っているんですよ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

澤田政廣が目指した仏像は、伝統墨守的な仏像ではなく、

 

現代を生きている生きた芸術家の手になる、現代を、今を、生きている仏像なのだと思う。

 

また彼の作品を鑑賞するのが楽しみとなった (^^)

 

 

 

澤田政廣:1894ー1988 芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞日本芸術院会員、文化功労者文化勲章  (熱海市立澤田政廣記念館、谷村美術館・澤田政廣展示館にて展示)

 

 

 

 

 

追伸)

 

本編は、文化団体 「日本の文化伝統そして日本人のこころ」 の編集委員と相談してさっそく同HPに掲載してもらうことにした。 いつのまにかこの団体の記事の半分はおれの記事になってしまったが (笑)

 

 

 

 

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月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO4・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん

 

(澤田政廣 「蓮華」  89歳の作品)

 

 

 

昨日、彫刻家・澤田政廣の生命力溢れる彫像の話を聞いて、さっそく今日、熱海の澤田政廣記念美術館に行ってきた。 

 

その作品から発する生命力、作品から感じる動きの速度、真剣勝負の迫力などいずれも圧倒的であった。とくに89歳の作品 「蓮華」 がわれわれに働きかける速度には気圧される思いすらした。澤田政廣についてはぜひまた別の機会に書いてみたい。 

 

奇遇だが、澤田政廣は月光荘おじさんの兵蔵さんと同じ1894年生まれだ。故人となられたのも澤田政廣は1988年(93歳)であり、兵蔵さんは1990年(96歳)で、明治、大正、昭和を同世代で生きた二人であった。 

 

澤田政廣は澤田政廣記念美術館が設立され、最後の力作 「大聖不動明王」 を仕上げ、三越でその記念展を開催すると、まもなく亡くなった。 

 

兵蔵さんもまた同じように、そのいのちのすべてを燃やし切って亡くなるのである。 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 

その事件が起こったのは、じつに兵蔵さんが95歳のときである。 

 

 

 

兵蔵さんが大恩ある芸術家たちのために開店した月光荘は、戦前、新宿の一等地に100坪もの敷地を有するまでに大きくなったが、太平洋戦争の大空襲によって灰燼に帰し、兵蔵さんは再び裸一貫となった。 

 

しかし兵蔵さんは、戦後、銀座に移り、わずか3坪の小さな店で月光荘を再興する。 

 

兵蔵さんの月光荘は、画材や絵の具の開発を続け、少しづつ土地を買い増しして、芸術家たちのために再びサロン、喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを順次併設していった。 

 

ご恩報じは現役の芸術家たちに対してだけではなかった。芸術家の卵の若者たちの面倒も見、彼ら彼女らが世に出るのを助けつづけた。 

 

 

 

その月光荘が、90代となった兵蔵さんのあずかり知らないところで、妖女、中村曜子に食い物にされる。 

 

中村曜子によって月光荘は膨大な借金を負い、国際スキャンダルとなる事件を引き起こし、ついに倒産するのである。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

その種は、兵蔵さんが70代半ばのとき、月光荘の会社の経営を息子の百蔵さんに譲ったときに生じた。 

 

所帯の大きくなった月光荘の経営は息子百蔵さんに任せ、兵蔵さん自身は月光荘ビルの一角の画材店で芸術家たちのお世話をし、画材・絵の具の開発をつづけていたのである。 

 

百蔵さんは兵蔵さんが40歳を過ぎて生まれたので、若い青年社長のデビューであった。

 

 

 

中村曜子は、軍人の家に生まれ、女学校時代に陸軍士官学校の教官と結婚するが、夫が戦死した場合を見越して、まもなく生まれた娘を自分の妹として入籍したほど計算が先立つ女だった。 

 

その後、彼女は夫と離婚し、資産家の安宅家の二代目と昵懇になり、その庇護を受けて印刷会社を経営し、学生向けアパートを所有し、娘を慶應義塾幼稚舎に通わせた。ちなみに安宅家は後に倒産する大手商社安宅産業のオーナー家である。 

 

彼女は安宅家の二代目に対しても世間に対しても 「夫婦別れみたいなことでは具合が悪い」 と考え、周りに 「娘の父は戦死した」 と話していた。 

 

 

 

ウィキペディアなどによると、この後に彼女の背後には錚々たる闇の大物、森下安道や小谷光浩らが関与することが指摘されている。 

 

彼ら闇の大物は、あらゆる手段を使って資産家や利用価値のある人間を罠にはめ、食い物にするのはお手の物だ。 

 

おれの恩師だったK会長(田中角栄から森喜朗までの歴代総理のフィクサー、故人)や、いまおれが師事しているT先生(現在、自民党系の最強のフィクサーと目される、78歳)たちが、ときに対立し、ときに利用し、ときに戦ってきた闇の実力者たちである。 

 

中村曜子はこののち月光荘を食い潰していくが、彼女自身もまた彼ら闇の実力者たちに利用されて食い物にされていただろうことは容易に察しがつく。 

 

 

 

そんな妖女、中村曜子の娘が通っていた慶應義塾幼稚舎~中等部に、兵蔵さんの息子の百蔵さんも通っていたのである。 

 

そのころ中村曜子は20代から30代。彼女が娘の友だちの百蔵さんに意図して近づいたのであれば、少年の百蔵さんが彼女に憧れるように仕向けるのは簡単なことであっただろう。 

 

やがて百蔵さんが若くして月光荘の二代目社長に就任すると、中村曜子も月光荘の経営に参画するようになる。ときに中村曜子41歳である。 

 

 

 

なにしろ月光荘与謝野晶子によって命名された歴史のある画材店であり、 

 

画材に関して30件以上の特許商品を所有し、フランス以外では不可能であった絵の具の開発に世界で初めて成功し、フランスのルモンド誌から 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛されていた。 

 

そして、なによりも 

 

梅原龍三郎、 

 

有島生馬、 

 

岡田三郎助、 

 

藤田嗣治、 

 

関口俊吾、 

 

小糸源太郎、 

 

猪熊弦一郎、 

 

脇田和 

 

など日本画壇を代表する画家たちが、故人も現役もみな月光荘と親しい付き合いをしていたのである。 

 

中村曜子やその背後の闇人脈にとって月光荘は利用価値のあるご馳走であっただろう。 

 

 

 

中村曜子は、月光荘の経営に参加するとすぐに、銀座月光荘ビル内にあった芸術家たちのための月光荘サロンを改装し、会員制アートクラブ 「サロン・ド・クレール」 を開設して、その女主人となる。 

 

そして月光荘の魅力と信用と人脈をフル活用して、有力な財界人や政治家をどんどん巻き込んでいく。 

 

それは、 

 

平野赳 (日魯漁業 社長 )、  

 

松山茂助 (サッポロビール 社長)、  

 

小山五郎 (三井銀行 社長)、  

 

北裏喜一郎 (野村證券 社長)、  

 

永野重雄新日本製鐵 会長)、  

 

武見太郎 (日本医師会 会長)、  

 

谷村裕 (東京証券取引所 理事長)、  

 

駒井健一郎 (日立製作所 会長)、  

 

渡辺省吾 (日興証券 会長)、  

 

斎藤英四郎 (日本経団連 会長)、  

 

岡田茂三越 社長)、  

 

金鍾泌大韓民国 国務総理)、  

 

中曽根康弘内閣総理大臣)、  

 

円城寺次郎日本経済新聞社 会長) 

 

など、錚々たるメンバーであった。兵蔵さんが人生をかけて築いてきた月光荘にはそれだけの信用と魅力とパワーがあったのである。 

 

 

 

月光荘の信用と魅力、日本画壇を代表する著名な画家たちの名前、そして日本の政財界を代表する政治家や財界人たちの名前がそろえば、金儲けのネタはいくらでも出てくる。地方の小金持ちなどに絵画などを売りつけるなどは簡単だ。 

 

こうして中村曜子が主導する月光荘ではどんどん大金が動くようになり、同時に中村曜子とその背後の闇人脈にどんどん食い潰されるようになっていった。 

 

 

 

この時期、兵蔵さんは70代後半から80代であったが、銀座月光荘ビルの一角の画材店で、日々、画材や絵の具の改良を重ねながら若い芸術家の卵たちの育成に心を砕いていた。 

 

その同じ銀座月光荘ビルの別のフロアのサロンで、中村曜子は百蔵さんと著名人たちを利用しながら大金を動かしていたのだ。 

 

 

 

1977年、中村曜子は百蔵さんをそそのかして月光荘ビルの近所のビルに別の事務所を開設する。ときに兵蔵さんは84歳。 

 

こうして兵蔵さんの目がまったく届かなくなると、いつの間にか、社長であった百蔵さんと副社長であった中村曜子の立場が逆転し、中村曜子が社長、百蔵さんが副社長となっていた。 

 

 

 

いくら月光荘の名前や人脈を利用して大金を手に入れても、食い潰される金のほうが大きければすぐに枯渇して潰れてしまう。さらに荒稼ぎをしなければ追いつかない。 

 

こうして、中村曜子はレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作をめぐって20億円の詐欺事件を引き起こし、1988年、イタリアのミラノ検察庁によって起訴され、国際的スキャンダルとなる。 

 

これが月光荘事件と呼ばれるものだが、しかしそれは氷山の一角にすぎないだろう。おそらく荒稼ぎした金は数百億円以上あったと思われ、その多くが闇に消えたはずだ。 

 

なにしろその翌年、月光荘が倒産すると、月光荘に残った負債だけで188億円あった。長年の商売なので負債の何倍~何十倍の商取引があったはずだからだ。 

 

この月光荘事件が勃発したとき、兵蔵さんはじつに95歳であった。 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

仕事に失敗したり事件に巻き込まれると、世間は冷たい。 

 

汚点だという。 

 

しかし詐欺事件に巻き込まれたことは汚点ではない。 

 

 

 

これを汚点だと罵るほうがバカ者なのだ。 

 

とくに当時、バブルの経験で日本人全体が金持ちになったと勘違いし、何か自分たちがセレブな人間になったと勘違いする風潮があったから、失敗した人や事件を起こした人には冷たい世相があったと思う。いや、そういう世相はいまもある。 

 

しかしそういう冷たい人は世界の恐さがわかってないのだ。 

 

闇の実力者から狙われれば、どんなに法律に詳しい人であっても、商売に精通している人であっても、刑事や官僚であっても、ほとんどの人が赤子の手をひねるように騙され、罠にはめられ、巻き込まれてしまう。力量が桁違いなのだ。

 

人の失敗を汚点だと罵るようなバカ者などイチコロでやられてしまう。

 

 

 

兵蔵さんは被害者である。 

 

しかもその後の姿勢が立派なのだ。 

 

そう、この一連の出来事は、汚点ではなく、立派な美点なのだ。 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 

兵蔵さんは86~87歳のころに水野スウに送った手紙に、 

  

「私はいつ死んでも悔いはないが、あと十年必ず生き延びて、与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、つきぬ永遠の基を作る」 

 

と書いている。 

  

  

  

また同じころの手紙に、 

  

「耳がとおくなってくると、相手の目の色に気がつくようになってきた。目がかすんでも、手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってくるようになってきました」 

  

と、書いている。 

 

  

  

すなわち、 

 

あと10年で、大恩ある与謝野晶子先生や画家の先生たちへの感謝のご恩報じをゆるぎないものにする。その永遠の基となる月光荘を作るのだ。 

 

そのために自分の身体の道具をすべて活かし、すべて使い切る。 

 

いのちを燃やし切る。 

  

生きることに誠実を尽くすとは、自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることである。 

 

 

 

いま、95歳。 

 

もうすぐその10年目が来ようとしている。 

 

すでに兵蔵さんの耳は遠くなり、目はかすんでいたかもしれない。 

 

しかしそれらが使えなければ手のぬくもりで感じ取り、 

 

最後はハートで感じ取って、 

 

ゆるぎない月光荘にしなければならない。 

 

 

 

そんな兵蔵さんと月光荘に中村曜子による大惨事が襲いかかったのである。

 

一連の事件に遅ればせながら気づいた95歳の兵蔵さんに、絶望している時間はない。残されたいのちの全身全霊をかけて、最後のご恩報じに挑まなければならない。 

 

もはや財産も名誉もすべてを失うのは避けられない。 

 

いや、財産も名誉もすべてなくなってもいい。 

 

しかし 「月光荘」 の名は、大恩ある与謝野晶子先生から頂いた看板である。 

 

すべてを失っても 「月光荘」 の名前だけは守らなければならない。 

 

月光荘の名前のついた画材店を潰してはならない。 

 

 

 

まず、兵蔵さんは、名門の家に嫁に行っていた娘のななせさん(百蔵さんの妹)を立てて裁判に打って出る。 

 

月光荘が倒産するのはやむを得ないが、その画材部門は一連の事件と全く関わりがないことを訴えたのだ。 

 

そして兵蔵さんとななせさんは、巨大な負債を抱えて倒産していく 「月光荘」 から、画材部門を分離することに成功し、 「月光荘画材店」 の名前を守り切る。 

 

 

 

次に、その月光荘画材店を再興しなければならない。 

 

月光荘画材店の名称はななせさんが継いだが、しかし、この名称のほかは何もないのである。 

 

少しづつ土地を買って建てた銀座のビルも店も自宅もお金も信用もすべて失った。 

 

しかも名前だけの月光荘画材店の、新たな代表取締役社長となったななせさんは3人の子供を抱え、子育てに奮闘する一主婦であった。 

 

ななせさんは兵蔵さんが50歳のときの娘だから、ときに45歳。もちろん経営の経験など全くない。 

 

 

 

1945年に太平洋戦争に敗戦したときも、兵蔵さんは裸一貫となったが、そのときは日本中が焼け野原で多くの日本人が裸一貫であった。 

 

資産は全部失っても、兵蔵さんが築いた信用もお客様も親しい画家たちも健在であった。 

 

戦後、わずか3坪の小さな店で再スタートしてもみんなが応援してくれた。 

 

 

 

しかしいまやすべてを失ったうえに、汚点だと言われる。店を借りるにしても、事件を起こした会社に部屋を貸してくれるところはなかった。 

 

二人で銀座中を探し回って、やっと見つけた空き部屋は、エレベーターもなく、階段で上がる雑居ビルの4階の狭い一室であった。 4階の一番奥の日も入らない暗い部屋だ。 

 

 

 

商品を置く棚も買えず、床に絵の具を並べて売った。 

 

ななせさんは一日一日が無我夢中で、未来なんて頭の片隅にもなかった。 

 

中学生になった孫の康造さん(ななせさんの息子)も店番に立った。 

 

 

 

それから1年にわたって、 

 

兵蔵さんは娘のななせさんと孫の康造さんの魂に、自分の最後のエネルギーの全てを、全身全霊を打ち込んで、月光荘再建のレールを敷いていく。 

 

 

 

95歳の兵蔵さんの背中をななせさんが押しながら二人でゆっくり階段を上る。 

 

ある日、将来に対する不安のあまり、ななせさんが思わず 「こんな場所で本当にやっていけるかな・・・」 と口にすると、 

 

兵蔵さんは一言、 「大丈夫、店は場所が作るんじゃない。人が作っていくものだから。」 と言い切って、振り向きもせず、また階段を上がっていった。 

 

兵蔵さんのゆるぎない信念がそこにあった。

 

 

 

こうして1年後、月光荘再建のレールは確立する。 

 

兵蔵さんはこの1年で最後のいのちをすべて燃やし切り、そのレールの確立を見極めると、まもなく息を引き取り波乱万丈の人生を終えた。

 

その後、月光荘は娘ななせさんと孫の康造さんによって見事に再建されていく。 


 

 

孫の康造さんは、 

 

「逆風のときにこそ人は試されます。祖父は本当に苦しいときの生き様を、何を語るでもなく、その背中で見せてくれました。それは他の何にも代えがたい月光荘の財産として、いまも僕らの心に生き続けています。」 

 

と述べている。 

 

 

 

これは娘のななせさんの言葉である。 

 

わたしが父について今になって一番強く感じていること。 

 

それは父の念じる力です。 

 

少しも先の読めなかった私と月光荘の、父亡きあとの30年間を、 

 

とにかくひたすら前を向いて歩ませ続けてくれたのは、 

 

最後の父の強い念力、まっすぐな祈りの力です。 

 

 

 

兵蔵さんは、最後のいのちをかけて、大恩ある与謝野晶子先生と画家の先生たちへの最後のご恩報じを成し遂げたのである。 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 

おれ自身が96歳まで生かされるかどうかはわからないが、

 

仮に生かされたとして、兵蔵さんのようにすべて失ったとしたら、

 

耳も遠くなり、目もかすんだ身体で、最後のご恩報じのために人生最後の全エネルギーを注ぎこんで、自分が死んだ後の30年間の復興のレールを敷けるだろうか。 

 

いや、できるかどうかではなく、兵蔵さんから学んだように、人生最後の場面で大惨事に見舞われようと、あるいは無事平穏であろうと、どんな状況であっても、生きざまは兵蔵さんと同じ覚悟でなければならない。 

 

 

 

今回は兵蔵さんの人生の骨子だけをまとめたが、いつか己の勉強のために兵蔵さんの人生をさらに詳細にまとめてみたいと思った。 

 

この学びを与えてくれた 「人生で大事なことは月光荘おじさんから学んだ」 を世に出してくれたきゅうぴい子さんに改めて感謝させていただくとともに、ななせさんと康造さんの月光荘が、月光荘の兵蔵さんの精神が、ますます盤石となることを祈念します。 

 

 

 

 

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月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO3・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん

 

(大正時代、パリ帰りの詩人、深尾須磨子)

 

 

 

今週は友人の紹介で昭和大学教授の佐藤均さんとお茶を飲む機会に恵まれた。

 

佐藤さんは東大卒で、アメリ国立衛生研究所の研究員、スイス・バーゼル研究所の客員研究員も務めてきたバリバリの研究者だ。

 

佐藤さんが日本古来の麻の研究をしていることもあって、おれのテーマである 「縄文日本人の愛と和の精神」 「東日本大震災における縄文の精神」 「日本型医療の必要性」 などでも大いに気が合った。

 

それに水上治さんを尊敬していることもわかったので       (財)国際健康医療研究所のHPも見ていただいたところ、ぜひ参加したいという意向を示してくれた。

 

それでさっそく(財)国際健康医療研究所の水上治理事長、大谷雄策代表理事に連絡したところ、「大賛成」ということで、近々みんなで会食することになった。

 

また財団の新しい仲間が増える。なんとも嬉しい限りだ(^^)

 

 

 

閑話休題

 

本題、月光荘のおじさん、こと兵蔵さんから学んだ 「すごいこと」 である。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

(前回の続きから)

 

 

大正時代の1917年、兵蔵さんは23歳で著名な芸術家たちの支援を受けて新宿に画材店 「月光荘」 を開いた。

 

兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。

 

 

 

大恩ある芸術家たちのお役に立ちたい。

 

兵蔵さんは、芸術家たちの要望に応えて画材に工夫を重ね、そうしているうちに、期せずして30件を超える特許商品を開発することになり、

 

フランス以外では不可能と思われていた絵の具も、はじめて国産の絵の具の開発に成功した。

 

 

 

新宿の月光荘画材店はにぎやかになっていった。

 

やがてパリの街角のようなお洒落なサロンと喫茶店が併設され、中川一政小磯良平猪熊弦一郎、中西利雄、脇田和などの当代一流の芸術家たちの社交場となった。

 

また月光荘ギャラリーも開設され、岡田三郎助が審査委員長となって絵画のコンクールが催された。

 

さらに画家の中西利雄の発案でクラブ室ができて、グランドピアノが設置され、あらゆる楽器もそろった。

 

 

 

1930年代後半になると、兵蔵さんの月光荘画材店は、新宿大通りの一等地に100坪もの敷地を有し、

 

詩人の深尾須磨子の発案でパリ風の中庭のあるサロンや喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを併設し、

 

雑誌 「洋画新報」 「近代風景」 を発行するまでになった。

 

お洒落な街角の代表として、映画のロケ地に毎年20~30回も使われるようになっていた。

 

 

 

それでも大恩ある芸術家たちへのご恩報じで始めた仕事である。

 

店が大きくなっても兵蔵さんは欠かすことなく自ら芸術家たちに商品配達を行い、何か困っていることはないかとご機嫌伺いに通った。

 

若い芸術家の面倒を見ることも忘れなかった。

 

若い画家には奨学金を出し、月光荘のサロンや喫茶店では恋も芽生え、結婚式も挙げられたのである。

 

 

 

しかし1945年、日本は太平洋戦争に敗戦する。

 

新宿の月光荘は大空襲で灰燼に帰し、兵蔵さんは裸一貫となる。

 

兵蔵さん51歳である。

 

 

 

しかし、兵蔵さんの心意気は変わらない。。

 

兵蔵さんはまもなく銀座に引っ越し、わずか3坪の小さな店で再出発する。

 

新宿から銀座に遷ることを薦めたのは画家の猪熊弦一郎ら昵懇の芸術家たちであった。

 

猪熊弦一郎は 「オヤジ、やるならやっぱり銀座がいい。新宿の店が焼けてよかったな。」 と言って兵蔵さんを励ました。

 

 

 

兵蔵さんの月光荘は戦前から戦時中にも多くの国産の 「色」 の開発に成功してきたが、それは戦後銀座に遷ってからも続けられた。

 

前回記載の、

 

チタンホワイト (チタン油絵の具世界第1号)、

 

コバルトバイオレットピンク (世界油絵の具コンクール第1位受賞)

 

の開発に成功したのは銀座に遷ってからである。

 

フランスのルモンド誌が 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛したのもこのころだ。

 

 

 

こうしてわずか3坪だった銀座の月光荘画材店も少しづつ土地を買い増し、やがて喫茶室、ギャラリー、アトリエ、クラブが順次併設されていく。

 

 

 

まだ女学生だった芸術家の卵、水野スウ、立原えりか、江面幸子、小薗江恵子、水森亜土などが月光荘に通うようになったのもこのころのことだ。

 

江面幸子が初めて月光荘に来たとき、彼女のスケッチブックが風でめくれたのを見て、兵蔵さんが一言 「うまいな」 と言った。

 

江面 「ありがとう、おじさん。わたしおじさんだけにほめられたの。こんど東京に出てきたらまた来ます。」

 

兵蔵 「ああ、きっと寄りなさい。それから、詩も絵も続けるんだ。きっといいものができるよ。」

 

江面幸子は水戸から東京へ出てきていろいろなことを体験したが、お金が無くなると兵蔵さんの月光荘でキャンパスを貼ったり絵の具を売ったりのアルバイトをさせてもらった。

 

 

 

小薗江圭子は面白いハンドバックを持って月光荘に来た。

 

ハンドバックを開けると、おばけやネコのぬいぐるみがひょっこり顔を出す。

 

兵蔵 「どれ、見せてごらん。面白いじゃないか。」

 

店にはちょうど世界的画家となっていた猪熊弦一郎が来ていて、

 

猪熊 「いいね。」

 

小薗江圭子は感動した。人形を作ることに勇気が湧いた。

 

一緒にいた猪熊弦一郎の奥さんもとてもほめてくれて、彼女の衿を直してくれた。

 

次の日も月光荘でネコは彼女のハンドバッグの中にいた。月光荘のお客に立派な紳士がいて、そのネコを見て、

 

紳士 「そのネコを譲ってください。値段はあなたが決めてくれればいい。その気になったら月光荘に預けておいてください。」

 

 

 

3日後、兵蔵さんを通して小薗江さんのネコは紳士の手に渡り、はじめてお礼の手紙と謝礼金をもらった彼女は頬を輝かせた。

 

初めて自分の手で作った人形が人の目に留まって、売れたのだ。

 

彼女が頬を紅潮させながら街へ出ると、彼女の息が止まった。

 

銀座のど真ん中の有名なショーウィンドウにそのネコがいたのだ。通る人たちが足を止めるほどにかわいらしく。

 

小薗江はその店に駆け込んで、 「あのネコは・・・」 と聞くと、女店員が 「社長が持ってこられたのです。」

 

彼女は幸運に息を弾ませて月光荘に駆け戻った。

 

「よかったな、ドド(小薗江さんの愛称)。これからも一生懸命やるんだよ。自分がやりたいと思ったことはどこまでもやり遂げるのだ。勇気を持って、進んでいかなければいけない。」

 

こうしてぬいぐるみ作家、小薗江圭子が誕生した。

 

 

 

水野スウが初めて月光荘に立ち寄ったのも彼女が女学生の頃であった。

 

月光荘には特許商品などオリジナル商品が多数あるから、ふだん見かけない商品も多い。

 

ちょっと変わった便せんや封筒、はがきが並んでいるのが目に飛び込んできた。

 

「あれ? おじちゃん、なんでこんなもの売っているの?」

 

「店に来る絵描きさんの恋人やら、絵は描かんでも手紙は書くじゃろが。」

 

よく見ると、スケッチブックや便箋、そのどれにもラッパのようなマークがついている。

 

「おじちゃん、これは?」

 

「友だちを呼ぶホルンさ。その音色で人が集まるんだよ。」

 

 

 

それから水野スウは銀座に出るたびに月光荘に寄り道するようになる。

 

「おじちゃーん、元気ィ?」

 

「おや、おまいさん、また来てくれたの?」

 

「そうよ、恋してるとラブレターの紙がすぐなくなるもん。」

 

「そりゃそうだ。おまいも年ごろだからねえ―。」

 

 

このころ、中学2年から3年にかけて、水野スウは母と兄を亡くして精神的に危ない時期だった。

 

内側に溜まっていくぐちゃぐちゃな気持ちを紙の上に吐き出すしかなかった。誰からも変わってるねと言われた。

 

そういう彼女に、兵蔵さんは、いつも、何度でも、お前はお前でいていいんだよというメッセージを送ったのだった。

 

 

 

ときに兵蔵さん70歳くらいのころ、

 

水野スウが初めて自費出版で詩集を出したとき、兵蔵さんは目を通すなり、

 

「今度来るときたくさん持っといで。みんなに可愛がってもらおうよ。」

 

自分で見てもつたなく幼い詩集であったが、兵蔵さんの後押しで残らず売れてしまった。彼女はこのときの嬉しさを生涯忘れていない。

 

 

 

その後、水野スウは結婚して金沢に移住するが、兵蔵さんとのつきあいは文通となってつづき、やがて彼女は手紙のやり取りでカタログの月光荘新聞の編集を手伝うようになる。

 

彼女は、あるとき、 「そばにいて」 という資生堂のコピーが気に入って、兵蔵さんに手紙に書いた。

 

「おじちゃん、そばにいて・・・なんて言われたらドキドキしますか?」

 

「そばにいて・・・素晴らしい、信州信濃のそばよりも。ほとほと感心しましたよ。ドキドキ。」

 

 

 

こうして彼女は、人に対する感謝、ご恩報じ、仕事に対する真剣さ、人生への謙虚さを学んでいく。

 

 

 

兵蔵さんはやがて80代となったが、お世話になった芸術家たちへのご恩報じの精神は不変であった。

 

自分を育ててくれた与謝野晶子はじめとする芸術家たちへの感謝を忘れず、芸術家たちが使いやすいようにと画材の創意工夫をたゆまず、いのちを燃やして仕事に取り組み続ける。

 

これは兵蔵さんが86~87歳のころに水野スウに送った手紙である。

 

「スウさんや、

 

ほんとに去年はよく働きました。

 

三十年来の製品の改良に全力を注ぎました。

 

考えるのをやめようと思いながら、ついついまた考え始めるのも病気かね。

 

でも 『人のために』 つくしましたよ。

 

人につくせば喜ばれる、人のためは自分のためです。

 

それがいろんなかたちでもどってくるのです。

 

鮭が故郷の川に戻ってくるのと同じです。

 

今年もはじけるほどはたらきます。好きだからこそ働くのです。

 

私はいつ死んでも悔いはない。

 

だけどもう十年必ず生き延びます。希望があるからです。

 

与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、

 

つきぬ永遠の基を作るのです。

 

畑をたがやす鍬はピカピカしています。」

 

 

 

そして兵蔵さんの 「いのちを燃やす手紙」 が届く。

 

「耳がとおくなってくると、

 

相手の目の色に気がつくようになってきました。

 

目がかすんでも、

 

手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってきます。

 

男と女であったら、

 

ローソクか稲妻かすぐわかりますよね。」

 

 

 

ひとつの道具の具合が悪くなったら、代わりの道具を活かせばいい。

 

そいつの機能をフル回転させてやろうじゃないの。

 

もしそれがだめになっても、

 

手を握り合ったときのぬくもりで、

 

そしてしまいにはハートで人はいっぱい感じることができる。

 

もしかしたら見えないもの、形のないものが歳とともにはっきり見えるかもしれない。

 

生きることに誠実を尽くす。

 

それは自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることなんだよ、

 

と、兵蔵さんの声が聞こえてきそうだ。

 

 

 

「わたしの炎、おじちゃんのハートの炎にはとうてい及ぶべくもないけれど、

 

でも私自身がおじちゃんにとって、ときにはローソクのぬくもり、

 

ときにはびりびりっとおじちゃんをしびれさせる稲妻にならなければならない。

 

そのためにも毎日いのちを燃やしてゆくんだ。」

 

 

水野スウは兵蔵さんのいのちを燃やす手紙を抱いて涙が止まらなかった。

 

 

 

(つづく)

 

 

・・・・・・・・・

 

「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 より

要約 (フミヤス流)

 

 

 

 

 

兵蔵さんの燃えるいのちは永遠である。

 

焼け野原で裸一貫になっても、80歳を超えても、耳がとおくなっても、目がかすんでも、自分の全身を、自分のいのちを燃やしきる。

 

ご恩報じの人生、仕事は、宝石などよりもはるかに輝いている。

 

感謝があって、喜びがあるからだ。

 

 

 

しかし月光荘おじさんから学ばせてもらったことは、これで完結なのではない。

 

おれが学ばせてもらったことは、さらに、さらにすごいことで、じつにこの後のことなのだ。

 

今日もここまでとしてさらに次回へと続けたい。

 

 

 

つづく。

 

 

 

フミヤス・サンタゲバラ Ameba blog

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月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO2・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん

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軽井沢で池に降る雪を観ながら与謝野晶子に思いを馳せる (笑)

 

 

 

昨日は、雪が降っているのにわざわざと思われるかもしれないが、軽井沢に行ってフレンチレストラン、オーベルジュ・ド・プリマヴェーラで店の中庭に降る雪を鑑賞しながらランチした。

 

この店は料理が美味いのは当然ながら、完璧にもてなしてくれるスタッフたちに加えて、オーナーシェフの小沼康行さん自身が客のテーブルに挨拶に訪れ、帰りには車が出るまで玄関で見送ってくれる。

 

軽井沢はこういう心遣いの店が似合う。

 

 

 

かつて、日本人本来の自由思想をリードした文化学院も、与謝野晶子西村伊作たちがここ軽井沢で議論を重ね、設立準備を進めたのだった。

 

西村伊作が設計した文化学院の最初の校舎も軽井沢に再現されてルヴァン美術館となっているが、残念ながら冬場は休業している。

 

こうして思いの連想は与謝野晶子たちが応援した画材商、月光荘おじさん、こと兵蔵さんへとつながっていく (^^)

 

 

・・・・・・・・・

 

 

(前回の続きから)

 

 

こうして23歳で新宿に画材屋 「月光荘」 を開店した兵蔵さんは、この恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗った。

 

芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方に少しでもお役に立ちたい。そのために自分の一生をかけよう、と決心してはじめた画材屋である。

 

兵蔵さんは店の主人となってからも、自ら絵描きたちへの配達を行い、ご機嫌伺いを欠かすことはなかった。

 

 

 

画家の猪熊弦一郎のアトリエにお伺いしたときのこと。

 

アトリエいっぱいに広げられた新聞紙の上に、汚れた筆洗い油の入った器と洗ったばかりの筆が並べられていた。

 

兵蔵さんが 「先生、こんな汚れた油ではきれいにならんでしょ?」 と聞くと、「油がもったいないからな」 という返事。

 

器の底にこびりついた絵の具をはがすのに半日かかるし、使いかけの筆をそばに置くと互いにくっついてしまう。

 

 

 

兵蔵さんは店に帰っていろいろ試してみると、筆洗い器を二重底にすれば絵の具のカスだけが下に落ちて油はあまり汚れないことに気づいた。

 

それから1年、あれこれ工夫していると、ある日、見ていた映画の手術のシーンで湯気の立っているラセン張りの筒にメスを次々に差し込んでいく場面に出会う。

 

そうだ! これを筆に置き換えればいい!

 

さっそくブリキ屋に見本を注文したが、しかしなかなかうまくいかない。

 

さらに3年にわたって試作品を作らせ続けたが、ついにブリキ屋から 「勘弁してくれ。もう金の問題じゃない。おれの脳みそがおかしくなりそうだ。」 と断られてしまう。

 

その後、画箱職人と共に努力を重ね、

 

ついに満足のいくものを完成させたのは、じつに5年目のことであった。

 

 

 

さっそくこの筆洗い器を持って猪熊先生のところに飛んでいくと、

 

一言、「こんなのが欲しかった! 絵になる!」

 

この一言で兵蔵さんの苦労は吹き飛んだ。

 

しかものちに特許が下りてこの筆洗い器は特許商品となる。

 

 

 

この筆洗い器を洋画家の国沢和衛がパリにいた画伯・藤田嗣治のところに持っていくと、藤田は 「見ているだけでも楽しい。月光荘のおやじは今もいろいろ考え続けているのかい?」 と言って大称賛してくれた。

 

さらに藤田嗣治から同じくパリにいた洋画家関口俊吾に伝わり、関口俊吾から世界の画家パブロ・ピカソに伝わった。

 

ピカソは 「こんな便利なものがあって日本の画家はいいな!」 と感嘆したのである。

 

 

 

芸術家たちのお役に立ちたい。こうした兵蔵さんの努力は日々たゆむことなく、兵蔵さんは意図せずに、結果的に30件を超える特許商品をものにすることになる。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

46億年前にできた地球の歴史の中で、宝石は自然が何十億年もかかって地熱で育てて出来上がった。

 

むかしの画家は宝石を粉にして絵の具を作ったので、「絵の具は宝石」 と言われたのだった。

 

地上で最初に絵の具が発明されたのはフランスで、発火法という技法だった。自然の宝石と同一成分を鉱物から吸収し、それを炉に入れて高熱をかけることから始まる。

 

たくさんの色の絵の具ができるまでは大変な努力であった。親子三代もかかってやっとできた色もある。

 

フランスでは色の発明者には最高の勲章と栄誉と賞金と名誉の墓地まで与えられた。

 

こうしてほとんどの色は19世紀末にフランスで出そろった。

 

 

 

世界はフランスから絵の具を輸入していたのである。

 

 

 

それが1939年、第二次世界大戦の勃発によってフランスはドイツに占領され、全世界で絵の具の輸入が途絶えた。

 

日本では文部省が 「一時しのぎのための代用品を作れ」 と省令を発し、業界全体が代用品に走る時代となった。

 

 

 

しかし絵は画家のいのちである。その絵の具をしばらく代用品で応急措置して、後に本物の絵の具で描き直すというのでは絵にいのちがこもらない。画家のいのちがむなしく死んでいってしまう。

 

兵蔵さんの月光荘はガンとして 「代用品は作らない」 と宣言し、

 

大恩ある画家たちのために、フランスが何代にもわたって完成させてきた絵の具を、何が何でも短期間のうちに国産品として完成させなければならない、と決意する。

 

 

 

それからは死に物狂いであった。大恩ある先生たちが困っているのだ。

 

明けても暮れても、空襲の警戒警報中であっても炉の火から離れることなく、限りない挫折感と空漠感を何度も身に染みて味わいながら取り組み続けた。

 

そして愚直の1年。

 

しかしわずか1年である。

 

1940年、瑠璃色の青、不滅のコバルトブルーが完成したのだ。

 

純国産の油絵の具第1号である。それは日本の芸術界にとって青天の霹靂であった。

 

猪熊弦一郎脇田和ら日本を代表する画家たちがみんな月光荘に参集し、惜しみなく歓声を挙げた。

 

 

 

翌朝、東工大の若き研究者であった稲村耕男 (やすおと読む。後に東京工大教授) が月光荘を訪ねてきた。兵蔵さんが作った油絵の具を見ると、その場で月光荘研究部に入った。

 

以来、稲村は大学の帰りに毎日月光荘に通い、兵蔵さんと共に色を作る研究に打ち込んでいく。

 

 

 

そして、やがて月光荘から、

 

セルリアンブルー、

 

コバルトバイオレット、

 

カドミウムイエロー、

 

バーミリオン (硫化水銀から成る赤色)、

 

ビリディアン (クロミウムから成る緑色)、

 

オキサイドグリーン、

 

コバルトグリーン

 

と、新しい色が次々に誕生していった。

 

 

 

文化勲章の小糸源太郎が 「買い置きしていたコバルトグリーンを使い果たしてしまって、いま取り組んでいる絵が完成できない。何とかしてくれ!」 と悲鳴を上げたのはじつに月光荘のコバルトグリーンが製品になる前日であった。

 

翌日の夕方、兵蔵さんがコバルトグリーン半ダースを持って走って届けると、小糸源太郎は感動でしばし無言。そしてほどなく絵は完成したのであった。

 

 

 

さらに後に、月光荘は、

 

チタンホワイト (チタン油絵の具世界第1号)、

 

コバルトバイオレットピンク (世界油絵の具コンクール第1位受賞)

 

の開発に成功する。

 

フランスのルモンド誌は 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛した。

 

ついに兵蔵さんの月光荘は、世界で唯一、芸術の国フランスと肩を並べたのである。

 

 

 

(つづく)

 

 

・・・・・・・・・

 

「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 より

要約、加筆 (フミヤス流)

 

 

 

兵蔵さんの人生は、ただただ一途に、お世話になった芸術家たちへのご恩報じの人生である。

 

これが本当の仕事のあり方なのだと思う。

 

しかしわかっていてもなかなか実行できない。実行してもなかなか思いを持続できない。

 

しかしこうやって実行している人生を目の当たりにさせてもらうと、よし!と思える。

 

 

 

ご恩報じの人生、仕事は、宝石などよりもはるかに輝いている。

 

感謝があって、喜びがある。

 

 

 

しかしこののち、おれはさらにすごいことを月光荘おじさんから学ばせてもらうことになる。

 

今日そこまで書こうと思っていたのだが、兵蔵さんの人生は奥が深く、壮大である。なかなか短くまとめきれない。

 

今日はここまでとしてさらに次回へと続けたい。

 

 

 

ちなみにこの本 「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 をおれに紹介してくれたきゅうぴい子さんは、じつはこの本の出版を企画した本人でもある。

 

きゅうぴぃ子さん、素晴らしい本を出してくれて、あらためてありがとう!

 

 

 

つづく。