いのちより大切なもの ― 群馬県赤城山の麓にて ―
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- 星降る夜空のような包容力を
(富弘美術館 星野富弘)
星野富弘さんは、1946年、群馬県勢多郡東村(現みどり市)の貧しい農家に生まれた。
富弘さんの両親は太平洋戦争で焼け出され、ここ東村を頼り、わずかな棚田を開墾して一生懸命に生きてきた。
貧しかったが、当時の田舎の家がどこでもそうであったように、富弘さんも学校から帰ると汗を流して農業を手伝い、一日の仕事が終わると近所の子供たちと一緒に野を駆け、木に登って思い切り遊んだ。
学校の成績も運動能力も優れていた富弘さんは、やがて群馬大学教育学部体育科に進学し、学業と並行して、器械体操と登山に情熱を燃やす。
そして大学卒業とともに地元の中学校に就職して教諭となった。
しかし、わずかその2年後、24歳のとき、クラブ活動の指導中に生徒たちの前で宙返りを実演してみせて頭から落下してしまい、頸髄を損傷し、手足の自由をまったく失ってしまう。
それから9年間、群馬大学病院で寝たきりの入院生活を続け、退院した後も、生涯、手足の動かない車椅子の生活となった。
当然ながら、悔やんでも悔やみきれない。
生徒たちの前で宙返りなんてしなければよかった。
いや器械体操などしなければよかった。
その前に大学の入試に落ちていればよかった。
むしろ病弱であればよかった。
いっそ、生まれてこなければよかった。
富弘さんは来る日も来る日も病室の天井を見ながら、そう思い、
もう死んだほうがよいと思った。
富弘さんはお母さんにも辛く当たり、「なんでおれを生んだんだ!」と言って泣かせた。
お母さんは、そんな富弘さんを必死に看病しながら、せめて心が通じるようにと、手足の動かない富弘さんの口にペンを咥えさせて文字を書く練習をさせた。
富弘さんは最初はやっと点を描くだけで力尽き、何度も癇癪を起こした。
富弘さんを支えたのは、お母さんの「自分のいのちに代えても」の必死の愛であった。
やがて富弘さんは口にくわえた筆で詩と絵を描き出していく。
富弘さんは語る。
・・・・・・・・・
24歳でケガをして入院した時、膀胱にカテーテルを(管)を入れて尿を排出していました。
しかしカテーテルに点滴と同じ細い管を接続していたので、管が詰まってしまうことがよくありました。
私は身体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。しかし管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、身体中に汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸は激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。
そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。
その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私を見かねて、母は、私の尿道につながっているカテーテルを口にくわえ、吸ったり、息を吹き込んだりして管の詰まりを取ってくれたのです。
母は私が苦しむたびにそれをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず身体が動いたのかもしれません。母にしかできないことだと思います。
母は、私が人工呼吸器につながれ、高熱にうなされていた時、「我が身を切り刻んででも生きる力を富弘の身体の中に送り込みたいと思った」と回想しています。
私は、それほどの愛に応える術を持っておらず、何も言うことができませんでした。
神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおうと思っています。
風に揺れるペンペン草の実を見ていると、そんな日が本当に来るような気がします。
・・・・・・・・・
富弘さんはその後、手足が動かないまま、
われわれに大きな感動を与えてくれる詩人・画家となった。
おれも富弘さんの圧倒的な愛と生命が迸る作品を前にして、感動で震えが止まらなかった。
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