日本の狼たちよ、蘇れ!・・・日本男児はタガメ女を救えるか
今日のブログは日本中の専業主婦たちが気分を悪くするかもしれないので、主婦の方はあまり読まないほうがいいかもしれない。
という前置きからはじまるが、
まず現代日本人は平和とか幸せというとどんなイメージを思い浮かべるだろうか?
何もせずにボケーッとしていれば何やら平和と幸せが勝手に舞い込んでくるようなイメージを植え付けられていないだろうか。
先月のブログで、
3年前にもNHKの大河ドラマで「真田丸」が放映されたが、それはちんけな作風の三谷幸喜の脚本なので、よくギャグが飛ぶが、全体的にちんまりしたつまらない男の物語となってしまった。
池波正太郎原作の「真田太平記」は、狼の群れと同じ男社会(組織)の掟をきちんと描き、男が本来持っている壮大なロマンと、同じ池波の鬼平犯科帳に見られるような粋な男らしさがテーマとなっている。そこには日本人本来の縄文の呼吸が感じられるのである。
と、書いた。
当然ながら、平和も幸福も何もしないでボケーッとしていて得られることは絶対にない。愛する者たちの平和と幸福を守るためには、血と汗を流しても他国の侵略者は撃退しなければならない。
これは個人や家庭でも同じである。
言うまでもないが、平和と幸せは人に愛情を尽くしてこそ実現する。
人に愛情を尽くすとは、誰かが危険な目に遭っていれば飛び込んで助けることに他ならない。
また人の苦しみを見抜けなければならない。
そして人の力になれることである。
かつて日本列島は日本狼の群れが疾走し、縄文日本人と親しく近い存在であったと考えられる。本来、男の社会の掟とは狼の群れの掟と同じだからだ。
やがて弥生時代から現代に至る流れの中で日本狼は絶滅してしまったが、
もし男が狼と同じような嗅覚・直感力・瞬発力を失ってしまったら、危険な目に遭っている友のために飛び込むことができるだろうか。人の苦しみを見抜くこともできるだろうか。力になれるだろうか。男としての愛情の発露ができないのではないか。
大人の男たちが本物の狼なら、社会には争いもいじめも虐待も発生する余地がないのである。
広島大学や岡山大学をはじめとする研究成果から縄文日本人は互いに争うことのない平和で幸福な民族であったことが明らかになってきたが、それは縄文日本人が何もせずにボケーッとしていたということではない、ということだ。
縄文日本人が平和で幸福だったということは、誰かが危険な目に遭っていれば飛び込んで助ける瞬発力があったということであり、人の苦しみを見抜けたということであり、そして人の力になれたということなのである。人に愛情を尽くすことができたのである。
それは、縄文日本人が日本の狼のような直観力と力強さを持っていたからこそ平和で愛に溢れた社会を維持できたということに他ならない。
だからこそ縄文日本人は1万7千年にもわたって何者の侵略も許さなかったのである。
その縄文日本人が2300年前に天皇家などのアホな弥生人に侵略されたのは、そのころに縄文日本人は何らかの理由で狼としての本能を失っていたからだと考えるべきだ。
ところが、
大阪大学准教授の深尾葉子によると、現代日本の男たちは狼の本能を失ったどころか、カエル男に成り下がっているのだという。
ここからが問題である。
深尾葉子は語る。