クリスマスの前に・・・アラビアンナイト千夜一夜物語
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2012年の映画アラビアンナイトを観た。
もともとイタリアで制作されたTVドラマだそうだが、映画化され、前後編で合計3時間以上の大作となった。
物語は、王女シェヘラザードとその召使いの女性が二人で砂漠を旅するところから始まる。
かつてシェヘラザードの婚礼の日、新郎アラジンと指輪を交わし誓いのキスを交わした直後、夫となったばかりのアラジンは魔女によって呪いをかけられ、愛の記憶を消されたうえ、愛する女性を殺すように暗示されて失踪したのだった。彼女は夫アラジンを捜す旅を続けていたのだ。
そしてある海辺の城にたどり着く。
村人によると、そこには自分が誰かも分からない呪われた王子が住んでいて、来る者をみな殺してしまうという。シェヘラザードはその男性こそが夫アラジンだと確信する。
彼女が城を訪問すると、暗い雰囲気をまとったその王子はまぎれもなく夫アラジンであったが、妻のシェヘラザードを前にしても思い出すことなく、たちまち彼女の命を奪おうとする。
シェヘラザードはアラジンに、癒しの力のある物語を聞かせることを条件に命の猶予を求める。
彼女が語り始めたのは、バグダッドの王女シェヘラザードと、街の貧しい靴職人アラジンとの愛の物語だった。
こうして (原作とはだいぶ違うけれども) この映画の千夜一夜物語が始まる。
ところで、おれとアラビアンナイトのおとぎ話、イメージが合わないって?(笑)
いや、おれも人の子、この映画で3回も感動する場面に会ったのです。
話はさかのぼって、王女シェヘラザードが貧しい靴職人アラジンと初めて出会ったころのこと。
まもなくしてシェヘラザードの父親である国王が後妻(シェヘラザードの継母)によって殺されてしまい、シェヘラザードは追われながら砂漠に逃亡する。
なんとか追手を振り切ったものの、砂漠をさまよう彼女はやがて盗賊団に捕まり、また殺されそうになる。
盗賊団の首領の愛人が「シェヘラザードは自分の妹だ」と言って庇ったので命は助かったが、彼女は盗賊団の奴隷となった。
そして盗賊団の首領は、自分の愛人を伴い、教養のあるシェヘラザードを利用して魔物から巨大なエメラルドを盗みだす。
しかし魔物は地を割き、首領の愛人を飲み込もうとする。
そのとき、極悪非道であったはずの首領は手に持っていたエメラルドを魔物に投げ返し、両手で愛人の腕をつかんで助け上げたのだった。
そして本当に大切なものが何なのか、いま分かった、と告白する。
これを甘いおとぎ話とみるか、人生の真理とみるかは、読む人の置かれている立場によるだろう。
次に、
また話はさかのぼって、同じく貧しい靴職人アラジンが王女シェヘラザードと初めて出会ったとき。
アラジンのほうは身分の違いに絶望してしまい、この恋をあきらめるために家を出て傷心のまま放浪の旅をしていた。シェヘラザードの父国王が殺されたことも、シェヘラザードが砂漠へ逃亡したことも知らない。
やがてアラジンは魔女に目をつけられて誘惑される。しかしアラジンはシェヘラザードの面影が忘れられず魔女の愛を受け入れなかった。それで魔女に囚われてしまう。
しかしアラジンはそこで賢者に会い、賢者の知恵で魔女を撃退する。
こうしてアラジンは賢者とともに癒される楽しい旅を始めるが、ある日、自分の身分違いのために実らなかった初恋の物語を語る。
次の日の朝、賢者は魔法のランプのありかを示した地図をアラジンに残して、自らは姿を消したのだった。
アラジンは必死に賢者を探すが見つからない。
しかし考えてもみよ。この魔法のランプを手に入れれば、自分は王子となって王女シェヘラザードに堂々と求婚できるのだ。賢者の思いもそういうことだろう。
アラジンは舞い上がって砂漠にランプを探しに行く。
が、見つからない。
そこに近くの貧しい村の少年が空井戸に落ちたと知らせを受ける。
アラジンは駆けつけ、少年を助けるために井戸を降りていく。
そして空井戸の底にたどり着いて少年を担ぎ上げようとすると、その空井戸の底の横穴に光るものがある。
探していた魔法のランプだ!
しかしアラジンは魔法のランプに、自分が王子になれるように願うことなく、この瀕死の少年が助かるように、また少年の貧しい村に十分な水を恵んで豊かにしてくれるようにと願った。
アラジンと少年は村人たちによって井戸から無事引き揚げられ、その直後に井戸は満々の清水に満たされる。こうして少年と村人は救われたのだった。
しかし魔法のランプはふたたび井戸の底に埋もれ、アラジンが王子になる夢はなくなった。
と思われたが、ところが、アラジンは村人たちから心から感謝され、村の王になってほしいと懇願されたのだ。アラジンは、己から図ることなく、感謝され、祝福されながら王子となったのである。
三番目に、
こうして本物の王子となったアラジンは、王女シェヘラザードに求婚するため故郷バグダッドに帰る。
そこではじめて彼女の父国王が殺され、彼女自身も行方不明となっていることを知る。
彼はルイヴィトンから来た――わくわくする面白さ
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- 今世紀、人類は進化する!
(パリ シャンゼリゼのルイヴィトン)
このブログは毎週日曜日に書くことにしているが、一昨日土曜日の酉の市で屋台で食べた半生物が食あたりを引き起こしてしまい、昨日の日曜日は一日中寝込んでいた。
おれは5年前に暴飲暴食で胆嚢をやられて手術したことがあるので (とどめは3人で紹興酒を17本空けたとき。もっとも入院生活は至極楽しいものであった(笑) → お浣腸しますよ)、
昨日はそのときの症状に感覚が似ていたので念のため病院に担がれて行ったが、まず食あたりだということで、少しほっとしながらも一日中寝込みながらウンウン唸っていたのだった。
今日はもう大丈夫です(^^)
それで本題。
おれの友人にまだ若いHがいる。
彼は、パリのルイヴィトンでAI戦略・インターネット戦略を担当していた。しかもその後韓国のサムソンに引き抜かれて同じくAI戦略・インターネット戦略を担当した。
そして2年前に日本に帰国して、いま35歳、一部上場会社のAI戦略・インターネット戦略の責任者となっている。
彼の本名は近々開示できると思うが、本人の立場上、もし差し障りがあるといけないので今回のところはイニシャルHで記載することにした。
人間にはウマが合うというか、意気投合するというか、センスがマッチする仲間というのがいる。
おれの場合、たとえば水上治さん(医学博士・国際健康医療研究所理事長・70歳)と話していると、日本人、縄文日本人、日本型医療、人類の歴史、さらには人間論に至るまで、考え方がぴたりと合って、話すたびに新たな発見があり、自己の再発見もできる。
またたとえば安倍政権最強のフィクサーT先生(78歳)と話していると、政財界のキーパーソンたちの動きが手に取るように分かり、世の中の流れの裏事情・真相が分かるにとどまらず、人間のものの考え方、国内国外の政治勢力の本質、パワーバランスの本質まで、話し込んでいくうちにより鮮明に浮かび上がってくる。だから話すたびに新たな発見があり、己を含む人間というものの本質がより深く理解できる。
ルイヴィトン出身のHさん35歳とはまた別の感覚でウマが合う。
チョロQとともに新たな決意!
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( チョロQ・・・全長3センチくらい )
ひさしぶりにメスネコちぃのいる家に帰ると、ちぃの姿が見えない。
家人に聴くとちぃは息子の部屋で寝ているというので、いつもドアが開けっぱなしの息子の部屋を覗くと、ちぃはピアノの上でひっくり返って寝ていた(笑)
と、サイドボードのチョロQが改めて目に入った。
息子はチョロQのために立派なサイドボードを購入して、立派なガラスケースに入れて展示している。
チョロQ、ご存知だろうか?
チョロQとはおもちゃメーカーのタカラ(今のタカラトミー)が発売したミニカーで、実在の車を3センチ程度のミニサイズにしたものである。主にぜんまいばねで駆動し、少し車体を抑えながらバックさせて手を離すと勢いよくピューッと前へ走り出す。
息子は小学生のころからチョロQの熱烈な収集家なのだ。
なにしろ息子が小学校3年生か4年生のころ、秋葉原で光ファイバーと超ミニ電池と超ミニスイッチを買ってきて、あの3センチくらいしかないチョロQにヘッドライトが点灯するように自分で改造したほどだ。
ちょうどそのころ、ヨーロッパに家族旅行に行くことになって、小学生の息子はヨーロッパのチョロQを買うと言って意欲を燃やしていた。
ときに、当時おれが買収した会社で顧問をしてくれていた高橋清先生が「旅行先で何か希望があれば言ってください。」と言うので、「息子がヨーロッパのチョロQを欲しがってるんですが(^^)」と言っておいた。
高橋先生はおれのじつの親父よりも一回り年上で、通産省の局長を経て昭和シェル石油の会長となった大物官僚だ。当時は昭和シェル石油の相談役だった。
数日して、高橋先生から「外務省からパリ大使館にチョロQを確保しておくように指示したんですが、どうもチョロQが何だかよくわからないらしい。いや、じつは私もよくわかってないので、チョロQとは如何なるものか紙に書いていただけませんか?」と言われた(笑)
けっきょくチョロQとは日本のおもちゃメーカーのタカラが発売しているもので、ヨーロッパのオリジナルのチョロQというのは存在しないことが判ったのだった。
当時1990年代、世間はバブル崩壊後の大不況時代。おれは30代だったが、強大なスポンサーをもっていて、多数の会社の役員や顧問を兼任しながら、会社を買収したり、設立したり、やはりおれの親父の世代の歌手グループ・ボニージャックスのリーダーの大町さんのスポンサーになったりして、その大町さんが高橋先生を紹介してくれたことから、よく3人で銀座などに遊びに出た。
いま考えれば、なんとも冷や汗ものだ。
30代のガキが自分の親父の世代の大物官僚や著名人を伴って銀座で遊ぶなんぞは30年早いだろう。
東京新聞第2弾 ー 世界に貢献すべき日本人の生命
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- 坂上芳洋さん (防衛省のドン)
(先手必勝)
日本のイージス・アショア (陸上配備型のミサイル防衛システム) 導入において、
坂上理事長の爆弾発言第2弾が東京新聞朝刊11月18日号に掲載された。(→下記)
もうご存知のことと思いますが、坂上理事長とはわれわれ(財)日本総合戦略研究所の理事長、坂上芳洋のことです。
坂上理事長の爆弾発言のポイントは次のとおり。
日本のイージス・アショア導入に伴い、米国ミサイル防衛庁が日本に提案してきたレーダーは、
1.米国レイセオン社製の「SPY-6」
2.米国ロッキード・マーチン社製の「SSR」
の2つである。
これに対し、日本の防衛省は米国ロッキード・マーチン社製の「SSR」を選定した。理由としては基本性能や価格を評価したとしている。
しかしこの選定がミサイル防衛の第一人者である坂上理事長に言わせれば「ちゃんちゃらおかしい」のだ。
坂上理事長が指摘するのは、
1.日本の海上自衛隊のイージス艦に搭載されているレーダーは米国レイセオン社製の「SPY-1」である。当然ながら同じレイセオン社製のレーダー「SPY-6」を使えばコストが大幅に下がる。米国ロッキード・マーチン社製の「SSR」は5割も高い。
2.同じ理由で日本の自衛隊隊員たちは米国レイセオン社製の「SPY」シリーズの運用に慣れている。別の機種を使えば最初から勉強し直さなければならない。
3.しかも米国ロッキード・マーチン社製の「SSR」は構想段階のレーダーであり、まだミサイル射撃試験などを行っていない。
などなど。
「おかしい」点がてんこ盛りだ。
東京新聞第2回目の記事の内容は、おれがこのブログで9月30日に書いた「スクープ! 爆弾発言!」と同じ内容である。
東京新聞がおれのブログより2か月も遅れて掲載になるのはまどろっこしいと感じるが、おれのほうは直接坂上理事長の背景や裏事情を知っているのに対して、新聞記者たちは坂上理事長に何度も取材するところから始めて、坂上理事長から紹介された米国レイセオン社役員や防衛省幹部などにも取材を重ねてようやく理解していくのだから仕方がない。
以下、東京新聞11月18日号朝刊。
・・・・・・・・・
(前略)
9月28日、久間元防衛大臣が主催する国際平和戦略研究所において、
久間氏の「これからの戦争はミサイルの時代になってきた。」という挨拶の後、海上自衛隊OBの坂上芳洋氏が講演した。
人類の医療を新たな愛と和のステージへ・・・水上治の世界(3)
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- 水上治さん (医学博士)
( (財)国際健康医療研究所 理事長 水上 治 )
おはようございます。
いつもはおれのブログは、日曜日、どこかに出かける前の朝方か、帰ってきてからの夜パソコンを開いて書くのだが、今日はぐっすり寝過ごして、お昼のこんな時間にパソコンを開いています(笑)
閑話休題。
(財)国際健康医療研究所 理事長 水上 治(医学博士)が、医療専門誌 「月刊健康支援外来11月号」 の巻頭のOpinionを飾った。
題して 「日本型の健康医療を創る必要がある」
ちなみに(財)国際健康医療研究所 (東京都千代田区九段南4丁目8-21 ) は、先月、仲間の親しい医師たちと一緒に設立した財団だ。
世界でも最高峰の医師である水上 治(医学博士)を理事長として、
大谷雄策(元三井住友銀行取締役)、
浦田哲郎(医療法人ホスピィーGROUP 理事長)
等を役員に迎えた。
おれ自身はいつもの通り役員には参加せず、財団ホームページ巻頭の「はじめに」を飾らせてもらい、このブログ・フミヤスサンタゲバラとリンクすることにした。
今年の春に設立した文化団体 「日本の文化伝統そして日本人のこころ」 と同じく、日本人の愛と和がテーマである。
すなわち、日本人の愛と和の精神を根幹とし、自然とも調和する「日本型医療」を確立し、世界に発信して世界の最先端医療を巻き込みながら、人類の医療を新たなステージへと進化させる原動力となることを目指す。
さて、「月刊健康支援外来11月号」の巻頭のOpinionにおいて、
理事長 水上 治は語る。
・・・・・・・・・
いのちより大切なもの ― 群馬県赤城山の麓にて ―
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(富弘美術館 星野富弘)
星野富弘さんは、1946年、群馬県勢多郡東村(現みどり市)の貧しい農家に生まれた。
富弘さんの両親は太平洋戦争で焼け出され、ここ東村を頼り、わずかな棚田を開墾して一生懸命に生きてきた。
貧しかったが、当時の田舎の家がどこでもそうであったように、富弘さんも学校から帰ると汗を流して農業を手伝い、一日の仕事が終わると近所の子供たちと一緒に野を駆け、木に登って思い切り遊んだ。
学校の成績も運動能力も優れていた富弘さんは、やがて群馬大学教育学部体育科に進学し、学業と並行して、器械体操と登山に情熱を燃やす。
そして大学卒業とともに地元の中学校に就職して教諭となった。
しかし、わずかその2年後、24歳のとき、クラブ活動の指導中に生徒たちの前で宙返りを実演してみせて頭から落下してしまい、頸髄を損傷し、手足の自由をまったく失ってしまう。
それから9年間、群馬大学病院で寝たきりの入院生活を続け、退院した後も、生涯、手足の動かない車椅子の生活となった。
当然ながら、悔やんでも悔やみきれない。
生徒たちの前で宙返りなんてしなければよかった。
いや器械体操などしなければよかった。
その前に大学の入試に落ちていればよかった。
むしろ病弱であればよかった。
いっそ、生まれてこなければよかった。
富弘さんは来る日も来る日も病室の天井を見ながら、そう思い、
もう死んだほうがよいと思った。
富弘さんはお母さんにも辛く当たり、「なんでおれを生んだんだ!」と言って泣かせた。
お母さんは、そんな富弘さんを必死に看病しながら、せめて心が通じるようにと、手足の動かない富弘さんの口にペンを咥えさせて文字を書く練習をさせた。
富弘さんは最初はやっと点を描くだけで力尽き、何度も癇癪を起こした。
富弘さんを支えたのは、お母さんの「自分のいのちに代えても」の必死の愛であった。
やがて富弘さんは口にくわえた筆で詩と絵を描き出していく。
富弘さんは語る。
・・・・・・・・・
24歳でケガをして入院した時、膀胱にカテーテルを(管)を入れて尿を排出していました。
しかしカテーテルに点滴と同じ細い管を接続していたので、管が詰まってしまうことがよくありました。
私は身体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。しかし管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、身体中に汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸は激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。
そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。
その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私を見かねて、母は、私の尿道につながっているカテーテルを口にくわえ、吸ったり、息を吹き込んだりして管の詰まりを取ってくれたのです。
母は私が苦しむたびにそれをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず身体が動いたのかもしれません。母にしかできないことだと思います。
母は、私が人工呼吸器につながれ、高熱にうなされていた時、「我が身を切り刻んででも生きる力を富弘の身体の中に送り込みたいと思った」と回想しています。
私は、それほどの愛に応える術を持っておらず、何も言うことができませんでした。
神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおうと思っています。
風に揺れるペンペン草の実を見ていると、そんな日が本当に来るような気がします。
・・・・・・・・・
富弘さんはその後、手足が動かないまま、
われわれに大きな感動を与えてくれる詩人・画家となった。
おれも富弘さんの圧倒的な愛と生命が迸る作品を前にして、感動で震えが止まらなかった。
→ おすすめの美術館 (日本の文化伝統そして日本人のこころ)が
富弘美術館を掲載しました。
いのちより大切なもの ― 群馬県赤城山の麓にて ―
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(富弘美術館 星野富弘)
星野富弘さんは、1946年、群馬県勢多郡東村(現みどり市)の貧しい農家に生まれた。
富弘さんの両親は太平洋戦争で焼け出され、ここ東村を頼り、わずかな棚田を開墾して一生懸命に生きてきた。
貧しかったが、当時の田舎の家がどこでもそうであったように、富弘さんも学校から帰ると汗を流して農業を手伝い、一日の仕事が終わると近所の子供たちと一緒に野を駆け、木に登って思い切り遊んだ。
学校の成績も運動能力も優れていた富弘さんは、やがて群馬大学教育学部体育科に進学し、学業と並行して、器械体操と登山に情熱を燃やす。
そして大学卒業とともに地元の中学校に就職して教諭となった。
しかし、わずかその2年後、24歳のとき、クラブ活動の指導中に生徒たちの前で宙返りを実演してみせて頭から落下してしまい、頸髄を損傷し、手足の自由をまったく失ってしまう。
それから9年間、群馬大学病院で寝たきりの入院生活を続け、退院した後も、生涯、手足の動かない車椅子の生活となった。
当然ながら、悔やんでも悔やみきれない。
生徒たちの前で宙返りなんてしなければよかった。
いや器械体操などしなければよかった。
その前に大学の入試に落ちていればよかった。
むしろ病弱であればよかった。
いっそ、生まれてこなければよかった。
富弘さんは来る日も来る日も病室の天井を見ながら、そう思い、
もう死んだほうがよいと思った。
富弘さんはお母さんにも辛く当たり、「なんでおれを生んだんだ!」と言って泣かせた。
お母さんは、そんな富弘さんを必死に看病しながら、せめて心が通じるようにと、手足の動かない富弘さんの口にペンを咥えさせて文字を書く練習をさせた。
富弘さんは最初はやっと点を描くだけで力尽き、何度も癇癪を起こした。
富弘さんを支えたのは、お母さんの「自分のいのちに代えても」の必死の愛であった。
やがて富弘さんは口にくわえた筆で詩と絵を描き出していく。
富弘さんは語る。
・・・・・・・・・
24歳でケガをして入院した時、膀胱にカテーテルを(管)を入れて尿を排出していました。
しかしカテーテルに点滴と同じ細い管を接続していたので、管が詰まってしまうことがよくありました。
私は身体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。しかし管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、身体中に汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸は激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。
そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。
その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私を見かねて、母は、私の尿道につながっているカテーテルを口にくわえ、吸ったり、息を吹き込んだりして管の詰まりを取ってくれたのです。
母は私が苦しむたびにそれをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず身体が動いたのかもしれません。母にしかできないことだと思います。
母は、私が人工呼吸器につながれ、高熱にうなされていた時、「我が身を切り刻んででも生きる力を富弘の身体の中に送り込みたいと思った」と回想しています。
私は、それほどの愛に応える術を持っておらず、何も言うことができませんでした。
神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおうと思っています。
風に揺れるペンペン草の実を見ていると、そんな日が本当に来るような気がします。
・・・・・・・・・
富弘さんはその後、手足が動かないまま、
われわれに大きな感動を与えてくれる詩人・画家となった。
おれも富弘さんの圧倒的な愛と生命が迸る作品を前にして、感動で震えが止まらなかった。
→ おすすめの美術館 (日本の文化伝統そして日本人のこころ)が
富弘美術館を掲載しました。