男は神の似姿になれるか ― カサブランカの美学 ―
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先週に引き続きハンフリー・ボガードの映画を観た。
おれのブログは映画評論のブログではないが、ハンフリー・ボガードは後を引く(笑)
ご存知の名作「カサブランカ」。
おれがこの映画を見るのは3回目だと思うが、前回観てから10年ぶりくらいになる。
この映画が製作されたのは1942年。第二次世界大戦の只中である。
当時、フランスの大半はドイツの占領下にあったが、同じフランス領でもモロッコからはアメリカへ渡航することができた。
それでモロッコの主要都市カサブランカはアメリカに亡命しようとする人たちでごった返していた。
以下、フミヤス流カサブランカ
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ストーリーは、カサブランカでクラブを経営するアメリカ人リック(ハンフリー・ボガート)が、成り行きで旅券を手に入れるところから始まる。この旅券でアメリカに亡命できるのだ。
そして反ドイツレジスタンスの英雄ラズロと妻イルザ(イングリッド・バーグマン)がその旅券を買うためにリックのクラブに来店する。
しかしイルザは、リックがパリにいたとき愛し合った女性であった。
以前、第二次世界大戦がはじまる少し前のこと、二人はパリで恋に落ちた。
そしてドイツ軍が侵攻してくる直前、二人でパリから脱出しようと約束した。
しかし、当日、約束の駅にイルザは来なかった。
裏切られた。
それきり、もう会うこともないと思っていた女だった。
お互いに偶然の再会に驚き、夫ラズロが席を外したとき、イルザからリックに話しかける。
しかし裏切った女にリックは冷たい。
イルザ「昨日なにしてたの?」
リック「そんな昔のことは覚えていない。」
イルザ「今夜会える?」
リック「そんな先のことは分からない。」
イルザはあきらめてラズロとともに帰っていく。
後日、ラズロはリックに「どうか旅券を譲ってほしい」と頼むが、リックの答えは「NO」であった。
イルザはこれを知って動揺する。レジスタンスの英雄である夫ラズロはドイツ軍とモロッコ警察に狙われている。夫を守るには時間がない。
イルザは意を決して、その夜、一人でリックに会いに行く。
相変わらず冷たくするリックだが、このときはイルザは怯まず、パリで約束を破った経緯を話していく。
イルザは、パリでリックと出会ったとき、すでにラズロの妻であったが、夫ラズロは収容所で殺されたと聞かされていたのだ。
イルザにとってラズロはレジスタンスの英雄であり、尊敬する指導者であり、愛する夫であった。
悲しみの淵にいたイルザを救ったのがリックとの愛だったのだ。
しかし、リックと一緒にパリから逃亡しようとした直前、ラズロが生きていることを知る。
イルザ自身もレジスタンスの同志だ。レジスタンス活動のためにリックを危険に陥れてはいけない。
イルザは考え抜いて何も理由を告げずに去ったのだった。
しかし、今、イルザ自身も、パリでリックと出会ってから自分が本当に愛しているのはリックだったと知る。
ただ、尊敬するレジスタンスの英雄であり夫であるラズロは守らなければならない。ラズロを無事アメリカに亡命させてほしい。
リックはイルザの気持ちを知ると、
リック「わかった。旅券はラズロに渡そう。しかし君だけは渡せない。」
イルザ「自分がわからないの。あなたが決めて。みんなのことも。」
リック「そうしよう。君の瞳に乾杯。」
しかし翌日、ラズロもまたリックに話す。
ラズロ「リック、君がイルザを連れてアメリカに渡ってくれ。」
リック「イルザを愛してないのか?」
ラズロ「いや、愛している。だからこそ君に頼むのだ。おれの周りは危険が多すぎる。それにイルザの気持ちは察している。」
リックはそれぞれの思いを知ると、友人の警察署長を銃で脅して先導させ、ラズロ、イルザと共に飛行場に向かうが、
しかし飛行場で、リックは、カサブランカに残ろうとするイルザを厳しく説得し、ラズロと一緒に飛行機に乗せてしまう。
イルザ「わたしが愛しているのはあなたなのよ。」
リック「ここに残ったら君は生涯後悔する。君はレジスタンスの闘志を忘れられないはずだ。それにラズロは立派な男だ。」
イルザ「あなたはどうするの?」
リック「君と幸せだったパリの思い出があるさ。 ( We'll always have Paris. ) 」
急を知って駆け付けたドイツ軍将校は飛行機を止めようとして銃を抜くが、リックは一瞬早く銃を抜いてドイツ軍将校を射殺してしまう。
そして飛行機は無事に飛び立った。
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西洋人の潜在意識を支配する聖書には次の聖句がある。
男は元々神の似姿である。あるいは、男は神の似姿でなければならない。
10年前に観たときは、
愛する女性のため、自分が犠牲になろうとする夫のラズロ。そして最後は自分が犠牲になることを選択するリック。
カサブランカの二人の男の自己犠牲の愛はあまりにも美しいと感じた。
そしてイルザもまた二人の男の自己犠牲の愛の前に、自分の気持ちを犠牲にしたのだと思った。
西洋では自己と他己を峻別するので、聖書の神の愛は自己犠牲の愛となって描かれることが多いのだ。
しかし、霊的世界から観れば、
この世界では楽を求めれば苦が生じ、得を求めれば損が生じる。
理屈ではなく、誰もが心の奥の直観で知っているように、愛は、楽も得も無く、だから苦も損もない。ただ尽くす愛一如の精神である。
愛は、隣人を守り、愛する人を守るために自らの生命をも惜しまない。だから楽も得もなく、苦も損もない。愛することそのものこそが喜びであるから、自己犠牲に見えても自己犠牲ではない。愛一如の精神なのである。
年賀の挨拶で書いたが、かつて多くの日本人兵士がアジアの人々の独立と喜びのために戦って戦死していった愛一如の精神は日本の宝であり、
昨年亡くなられた小林麻央さんが最後まで愛の一如に生き抜いた姿は人類の宝であると思う。
今回、10年ぶりに観て、
カサブランカの二人の男も、何も求めず、だから損も得もなく、自己犠牲ということもなく、ただ愛する女性を情熱をもって命を懸けて愛しぬいた愛一如の神の似姿に観えた。
イルザの心理は複雑であるが、神の似姿を思わせる二人の男の愛を前にして、その感動に直面したなら、イルザのみならず誰であってもなす術がなかっただろう。
いや、イルザもまた、神の愛に直面して、自己犠牲ということではなく、じつはなす術がないということでもなく、情熱をもって全力で愛一如を全うしたのかもしれない。