(財)国際健康医療研究所HP・・・論客・水上治の世界
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- 水上治さん (医学博士)
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(財)国際健康医療研究所の、新たなホームページが出来上がった。
この財団は、昨年、医学博士の水上治さんや財界人の大谷雄策さんたちと一緒に立ち上げたもので、ホームページも昨年末にはいったん出来ていた。
ところがその後、デザイナーの強い希望があってより本格的なHPに全面改装することになったり、そのあいだに(財)日本総合戦略研究所の坂上理事長がイージスアショアの導入問題で安倍政権や防衛省の幹部を叱り飛ばしてマスコミが騒ぎ出したり、月光荘おじさんと出会ったりして、ご案内が先送りとなっていた。
しかし、先週までに新たなHPの体裁も整い、月光荘おじさんも区切りがついて、イージスアショア問題はまだ燻ぶっているけれど、まあ、ほぼちょうどいいタイミングで、本日、(財)国際健康医療研究所の新たなHPをご案内できることとなりました。
そもそも(財)国際健康医療研究所とは何なのかというと、基本的には日本型の医療(メイドインジャパンの医療)を確立し、世界へ発信していくことを目指す団体である。
しかし、この団体は、日本型医療を確立していく過程を通して、医学医療の枠を超えて日本人全体の、あるいは日本人そのものの、さらには人類そのものの21世紀の道しるべの役割を果たすかもしれない団体でもある。
またそれだけの仕掛けも準備している。
おれが書いた 「はじめに」 はさておいて(笑)、まずは水上治、大谷雄策、久保明という3人の論客のご挨拶文をぜひご覧ください。21世紀の道しるべとなるヒントが隠されていると思います。
澤田政廣・・・生きていて、動きの速度を感じ、真剣勝負の迫力がある
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蓮 華 (木彫り) 1983年、澤田政廣89歳
昨日、北埼玉にある創作料理屋 「あまの川」 に寄った。
以前一度寄ったことがあって、とても美味かったのを憶えていたのだが、今回もやはりとても美味かった。
安倍政権最強のフィクサー T先生が何年か前に買いとった近県の料亭は、800坪の敷地に広壮な和風建築を有して、門の両側には大きな高張り提灯を掲げており、吉兆の料理長と金田中の女将が顧問について、日本でトップクラスの選り抜きの料理人や女将や中居たちを送ってきているが、
その壮大な舞台装置にもかかわらず、料理の美味さはここと変わらない(笑)
というか、ここの料理は吉兆や金田中とも変わらない。
ウェイトレスが憶えていてくれたので、あらためて美味いと褒めると、料理長の渡邉州次郎さんがテーブルに挨拶に来られて、思わず楽しい話が弾んだ。
美味いはずで、彼は金田中や紀尾井町の福田家などと縁があって、そういうレベルの修行をしてきているのだった。
おれが誰だか半分わからないようにしながら半分わかるようにするのは難しい。
子供の落書きのようになってしまった。
あまの川で、料理長の渡邉州次郎さん(右)と。
・・・甚平のまま行ったので何者かと思われたかもしれない (笑)
閑話休題!
月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO4・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん
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(澤田政廣 「蓮華」 89歳の作品)
昨日、彫刻家・澤田政廣の生命力溢れる彫像の話を聞いて、さっそく今日、熱海の澤田政廣記念美術館に行ってきた。
その作品から発する生命力、作品から感じる動きの速度、真剣勝負の迫力などいずれも圧倒的であった。とくに89歳の作品 「蓮華」 がわれわれに働きかける速度には気圧される思いすらした。澤田政廣についてはぜひまた別の機会に書いてみたい。
奇遇だが、澤田政廣は月光荘おじさんの兵蔵さんと同じ1894年生まれだ。故人となられたのも澤田政廣は1988年(93歳)であり、兵蔵さんは1990年(96歳)で、明治、大正、昭和を同世代で生きた二人であった。
澤田政廣は澤田政廣記念美術館が設立され、最後の力作 「大聖不動明王」 を仕上げ、三越でその記念展を開催すると、まもなく亡くなった。
兵蔵さんもまた同じように、そのいのちのすべてを燃やし切って亡くなるのである。
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その事件が起こったのは、じつに兵蔵さんが95歳のときである。
兵蔵さんが大恩ある芸術家たちのために開店した月光荘は、戦前、新宿の一等地に100坪もの敷地を有するまでに大きくなったが、太平洋戦争の大空襲によって灰燼に帰し、兵蔵さんは再び裸一貫となった。
しかし兵蔵さんは、戦後、銀座に移り、わずか3坪の小さな店で月光荘を再興する。
月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO3・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん
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(大正時代、パリ帰りの詩人、深尾須磨子)
今週は友人の紹介で昭和大学教授の佐藤均さんとお茶を飲む機会に恵まれた。
佐藤さんは東大卒で、アメリカ国立衛生研究所の研究員、スイス・バーゼル研究所の客員研究員も務めてきたバリバリの研究者だ。
佐藤さんが日本古来の麻の研究をしていることもあって、おれのテーマである 「縄文日本人の愛と和の精神」 「東日本大震災における縄文の精神」 「日本型医療の必要性」 などでも大いに気が合った。
それに水上治さんを尊敬していることもわかったので (財)国際健康医療研究所のHPも見ていただいたところ、ぜひ参加したいという意向を示してくれた。
それでさっそく(財)国際健康医療研究所の水上治理事長、大谷雄策代表理事に連絡したところ、「大賛成」ということで、近々みんなで会食することになった。
また財団の新しい仲間が増える。なんとも嬉しい限りだ(^^)
閑話休題!
本題、月光荘のおじさん、こと兵蔵さんから学んだ 「すごいこと」 である。
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(前回の続きから)
大正時代の1917年、兵蔵さんは23歳で著名な芸術家たちの支援を受けて新宿に画材店 「月光荘」 を開いた。
兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。
大恩ある芸術家たちのお役に立ちたい。
兵蔵さんは、芸術家たちの要望に応えて画材に工夫を重ね、そうしているうちに、期せずして30件を超える特許商品を開発することになり、
フランス以外では不可能と思われていた絵の具も、はじめて国産の絵の具の開発に成功した。
新宿の月光荘画材店はにぎやかになっていった。
やがてパリの街角のようなお洒落なサロンと喫茶店が併設され、中川一政、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄、脇田和などの当代一流の芸術家たちの社交場となった。
また月光荘ギャラリーも開設され、岡田三郎助が審査委員長となって絵画のコンクールが催された。
さらに画家の中西利雄の発案でクラブ室ができて、グランドピアノが設置され、あらゆる楽器もそろった。
1930年代後半になると、兵蔵さんの月光荘画材店は、新宿大通りの一等地に100坪もの敷地を有し、
詩人の深尾須磨子の発案でパリ風の中庭のあるサロンや喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを併設し、
雑誌 「洋画新報」 「近代風景」 を発行するまでになった。
お洒落な街角の代表として、映画のロケ地に毎年20~30回も使われるようになっていた。
それでも大恩ある芸術家たちへのご恩報じで始めた仕事である。
店が大きくなっても兵蔵さんは欠かすことなく自ら芸術家たちに商品配達を行い、何か困っていることはないかとご機嫌伺いに通った。
若い芸術家の面倒を見ることも忘れなかった。
若い画家には奨学金を出し、月光荘のサロンや喫茶店では恋も芽生え、結婚式も挙げられたのである。
しかし1945年、日本は太平洋戦争に敗戦する。
月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 NO2・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん
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軽井沢で池に降る雪を観ながら与謝野晶子に思いを馳せる (笑)
昨日は、雪が降っているのにわざわざと思われるかもしれないが、軽井沢に行ってフレンチレストラン、オーベルジュ・ド・プリマヴェーラで店の中庭に降る雪を鑑賞しながらランチした。
この店は料理が美味いのは当然ながら、完璧にもてなしてくれるスタッフたちに加えて、オーナーシェフの小沼康行さん自身が客のテーブルに挨拶に訪れ、帰りには車が出るまで玄関で見送ってくれる。
軽井沢はこういう心遣いの店が似合う。
かつて、日本人本来の自由思想をリードした文化学院も、与謝野晶子や西村伊作たちがここ軽井沢で議論を重ね、設立準備を進めたのだった。
西村伊作が設計した文化学院の最初の校舎も軽井沢に再現されてルヴァン美術館となっているが、残念ながら冬場は休業している。
こうして思いの連想は与謝野晶子たちが応援した画材商、月光荘おじさん、こと兵蔵さんへとつながっていく (^^)
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(前回の続きから)
こうして23歳で新宿に画材屋 「月光荘」 を開店した兵蔵さんは、この恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗った。
芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方に少しでもお役に立ちたい。そのために自分の一生をかけよう、と決心してはじめた画材屋である。
兵蔵さんは店の主人となってからも、自ら絵描きたちへの配達を行い、ご機嫌伺いを欠かすことはなかった。
画家の猪熊弦一郎のアトリエにお伺いしたときのこと。
アトリエいっぱいに広げられた新聞紙の上に、汚れた筆洗い油の入った器と洗ったばかりの筆が並べられていた。
兵蔵さんが 「先生、こんな汚れた油ではきれいにならんでしょ?」 と聞くと、「油がもったいないからな」 という返事。
器の底にこびりついた絵の具をはがすのに半日かかるし、使いかけの筆をそばに置くと互いにくっついてしまう。
兵蔵さんは店に帰っていろいろ試してみると、筆洗い器を二重底にすれば絵の具のカスだけが下に落ちて油はあまり汚れないことに気づいた。
それから1年、あれこれ工夫していると、ある日、見ていた映画の手術のシーンで湯気の立っているラセン張りの筒にメスを次々に差し込んでいく場面に出会う。
そうだ! これを筆に置き換えればいい!
さっそくブリキ屋に見本を注文したが、しかしなかなかうまくいかない。
さらに3年にわたって試作品を作らせ続けたが、ついにブリキ屋から 「勘弁してくれ。もう金の問題じゃない。おれの脳みそがおかしくなりそうだ。」 と断られてしまう。
その後、画箱職人と共に努力を重ね、
ついに満足のいくものを完成させたのは、じつに5年目のことであった。
さっそくこの筆洗い器を持って猪熊先生のところに飛んでいくと、
一言、「こんなのが欲しかった! 絵になる!」
この一言で兵蔵さんの苦労は吹き飛んだ。
しかものちに特許が下りてこの筆洗い器は特許商品となる。
この筆洗い器を洋画家の国沢和衛がパリにいた画伯・藤田嗣治のところに持っていくと、藤田は 「見ているだけでも楽しい。月光荘のおやじは今もいろいろ考え続けているのかい?」 と言って大称賛してくれた。
さらに藤田嗣治から同じくパリにいた洋画家関口俊吾に伝わり、関口俊吾から世界の画家パブロ・ピカソに伝わった。
ピカソは 「こんな便利なものがあって日本の画家はいいな!」 と感嘆したのである。
芸術家たちのお役に立ちたい。こうした兵蔵さんの努力は日々たゆむことなく、兵蔵さんは意図せずに、結果的に30件を超える特許商品をものにすることになる。
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46億年前にできた地球の歴史の中で、宝石は自然が何十億年もかかって地熱で育てて出来上がった。
むかしの画家は宝石を粉にして絵の具を作ったので、「絵の具は宝石」 と言われたのだった。
月光荘のおじさんから学んだ 「すごいこと」 ・・・芸術家たちを魅了する銀座の画材屋さん
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(水森亜土さん作)
先週の文化学院の記事を読んでくれたアメ友のきゅうぴい子さんが、
2017年暮れに出版された 「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 を紹介してくれた。
文化学院が創立されたのと同じ時代の文化人たちの交流やその心意気が感じられるということなので、さっそく取り寄せて、昨日、目を通してみた。
ひと言で感想を言えば・・・素晴らしい!の一語。
月光荘は銀座の画材屋さんで、店名の 「月光荘」 は与謝野晶子の命名である。
月光荘を舞台にして行き交った文化人は、
大正時代からの与謝野晶子、鉄幹、猪熊弦一郎、藤田嗣治、梅原龍三郎、西村伊作(文化学院初代校長)、永井荷風などの歴史的芸術家たちからはじまり、
戦後に女子高時代から月光荘に通った水野スウ、立原えりか、水森亜土など現代を生きる芸術家たちに至るまで、日本を代表する文化人を網羅している。
月光荘は、彼ら日本を代表する文化人、芸術家たちに大きな影響を与えてきたのだった。
そしておれ自身もまた人生で大切なことを月光荘おじさんから学ぶこととなった。
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ときは明治の中ごろ、兵蔵さんは北アルプスの雪解け水が日本海にそそぐ富山県に生まれた。
好奇心旺盛な少年は、山野の草花の素朴な色合いに心をときめかせ、虫や鳥たちと過ごしながら、時間を見つけては書籍に親しんでまだ見ぬ広い世界に思いを膨らませていた。
兵蔵さんは、貧しい暮らしの中で小学校を卒業するとすぐに農業を手伝うようになったが、18歳になったある日、決意して一人列車に飛び乗って、一路東京へと向かった。
おぬし、できるな!・・・香り高き文化学院にて
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(文化学院出身の寺尾聡さん)
哲学的文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」に、昨年の文化学院の閉校を受けて、特集記事「香り高き文化学院」が掲載された。
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竹久夢二、与謝野晶子、北原白秋らが活躍した大正ロマン華やかなりしころ、
建築家の西村伊作は、与謝野晶子と石井柏亭に、当時の政府の学校令に縛られない自由でより創造的な学校が必要であると力説した。
三人は大いに意気投合し、こうして1921年、東京に文化学院が創立されたのである。
国との方針が違ったため補助金はなく、すべて伊作自身の資産で運営され、河崎なつや与謝野晶子らによって独自の教科書も作られ、広辞苑に載る数少ない学校の一つとなった。
校舎は西村伊作自身によって設計され、当時の兵舎のような校舎の常識を破って、英国のコテージ風の建物が建てられ、大きな話題を呼んだ。軽井沢のル・ヴァン美術館に創立当時の校舎が復元され、当時をうかがい知ることができる。
文化学院の講師陣は圧巻であった。
文学は、与謝野鉄幹、与謝野晶子、菊池寛、川端康成、佐藤春夫、有島武郎らが教え、
さらに堀口大学、北原白秋、芥川龍之介、遠藤周作、高浜虚子、萩原朔太郎等がこれに続けと講師に加わった。
美術は、石井柏亭が率いる二科会の山下新太郎、有島生馬、正宗得三郎、水彩の赤城泰舒、棟方志功、ノエル・ヌエットらが教えた。
音楽は、山田耕筰、エドワード・ガントレット、伊達愛、萩野綾子、浅野千鶴子、ハンカ・ペッオード等が受け持った。
他にも、横光利一、小林秀雄等が創作と文芸評論を担当し、三宅周太郎、北村喜八、伊籐筰朔が演劇を担当した。
中学部の幼い生徒たちにも当時の一流の学者、芸術家たちが親しく教え、高踏的な人間教育がなされ、文化学院は多くの人材を輩出したのである。
しかし、1930年代、
世界恐慌、ドイツにおけるナチスの台頭、満州事変、日華事変などが次々に勃発する。
しかしその時代にあっても、文化学院は当初の校風を貫き、戦時中も自由主義の教育を続けて世評を恐れなかった。
1943年、西村伊作は自由思想による不敬罪でついに拘禁、投獄され、文化学院は閉鎖命令を受ける。
それでも文化学院は屈することはなかった。