フミヤス・サンタゲバラ クラブ

人間と世界を動かしている秘密と真相を勝手に書いていきます。 このブログには実在の政財界のフィクサー、実力者、著名な実業家、メスネコなどが登場します。

大和魂(2)愛の発露・己は倒れても

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大和魂(1)の続き)

 

 

国際ユダヤの合言葉ーー日本人を叩き潰せーー


 
こうして日本人は世界の人々の心の拠り所となり、心の支えとなった。世界中の人々が日本に続け!と起ち上がった。
 
この状況に直面し、大いに焦ったのは、当然ながら国際ユダヤ資本家と白人エスタブリッシュメントたちである。
 
嘘と暴力と軍隊によって騙して手に入れた莫大な資金、世界中の土地、鉱山、利権を奪い返されないように、自分たちの悪逆非道が暴かれないように、彼らは何とかしなければならないと考えた。
 
そしてネールや孫文など世界の闘志たちの「勇気」を打ち砕くために、彼らの心の拠り所であり心の支えでありシンボルである日本人を叩き潰す戦略を構築していく。
 
 
・・・・・・・・・
 
 
そして、
 
世界を支配する国際ユダヤ商人と白人エスタブリッシュメントたちは、日本を叩き潰すためにアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、オランダ、中国の連合軍を構築したのである。
 
ABCD包囲網という言葉はお聞きになったことがあると思うが、じつはソ連スターリン政権もスポンサーは国際ユダヤ商人であり、その仲間なのだ。
 
 
 
当時、ソ連スターリン政権は日本の実力を心底から恐れ、対日守備のためシベリア極東にソ連の最精鋭部隊を常時100万人も配備していた。
 
国際ユダヤの指示もあるが、ヒトラードイツ帝国の脅威に対抗するためにも、ソ連の子分である中国共産党に日本人を挑発させ、日本人の矛先を中国に向けさせなければならない。
 
日本軍を中国との戦争に引きずり込みさえすれば、アメリカとイギリスが中国に膨大な物量支援をしているから日本軍は釘付けになる。ソ連極東は安泰だ。またそうなればアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどと協力して日本を袋叩きにできる。
 
 
 
そして、第一弾として、
 
ソ連の傘下にある中国共産党を使って蒋介石を誘拐する(西安事件)。毛沢東蒋介石を殺そうとするが、ソ連アメリカから「蒋介石を殺さず、日本軍と戦わせよ」との指令が来る。アメリカの物資援助がなければ蒋介石の軍隊は立ちゆかなかない。やむなく蒋介石は日本と戦うこととなった。
 
そして中国共産党が日本人に挑発を開始した。現在、同じ中国共産党の艦船が尖閣諸島で日本人を威嚇したり体当たりして挑発しているのと同じだ。
 
当時、日本軍はアメリカ軍やイギリス軍などと共に「平和維持軍」として中国に駐留していた。中国共産党はその駐留日本軍を中国の内戦に巻き込むためにあらゆる策略をめぐらし、挑発を繰り返していく。
 
 
 
礼儀正しく忍耐強い日本軍はそれら挑発によく耐え続けたが、ついに1937年、盧溝橋(ろこうきょう)事件の罠に嵌められる。
 
北京郊外の蘆溝橋で夜間、日本軍に銃弾が撃ち込まれたのだ。日本は中国との紛争を避けるためよく耐え、応戦しなかったが、中国共産党軍は中国国民党軍の仕業に見せかけながら翌朝まで執拗に銃撃を繰り返す。朝、日本人の犠牲が出る危険を目前にして、日本軍はついに付近の中国国民党軍を掃討する。
 
中国政府は現在に至るまで「日本軍が先に攻撃してきた」としているが、中国共産党ははやくも事件の翌日にはじつに手際よく日本との開戦を宣言する激烈な声明を出しており、後には中国共産党劉少奇がこの事件を自分の工作実績として自慢話を語っている。
 
 
 
さらにソ連コミンテルンは、中国共産党に「この事件を局地解決させず、日中全面戦争に持っていけ」「局地解決を行なう要人は抹殺しろ」との指令を出した。
 
それでも日本は忍耐の限りを尽くす。戦線拡大の挑発に乗らず、1938~1941年のわずか3年の間に12回もの和平提案を行なった。しかもその条件は中国側に有利なものであり、中国に対する領土的要求もなかった。
 
逆に中国共産党は、停戦協定が成立しそうになったり戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対する激しいテロを繰り返し、日本人を殺害して、戦線拡大へと挑発した。日本人200人以上が中国共産党軍のテロで虐殺された事件も起きた。
 
これ以上日本人の生命を犠牲にできるか。日本人の世論も忍耐の限界に達した。そうして日本は中国(蒋介石の国民党軍)との全面戦争に突入していったのである。
 

 
次に中国共産党は国際ユダヤの世界的マスコミとともにプロパガンダによる情報戦を仕掛けた。全世界に対して日本軍が中国を侵略して中国人を虐殺しているというインチキ情報を徹底的にプロパガンダしたのである。
 
これは同じ中国共産党が支配している現在の中国も全く同じだ。日本の尖閣諸島や、フィリピン、ベトナム、マレーシアなどの南シナ海の諸島に対して漁船の体当たりや侵略を繰り返しながら、プロパガンダでは日本やベトナムが攻撃してきたという嘘っぱちを強力に喧伝している。
 
この強力なプロパガンダのために日本を信奉するインドのネールやガンジーでさえ、日本非難の声明を出したほどだ。
 
 
 
しかも日本政府の吉田茂(戦後に日本の首相)や日本海軍の山本五十六たちはアメリカのスパイである。
 
この件については別の機会に詳しく述べたいが、一つだけエピソードを書いておきたい。
 
 
 
一昨年、安倍政権のフィクサーのX氏、伊藤忠商事元代表取締役O氏、おれの3人で会食したときのこと。
 
ちなみにO氏は、戦後の有力フィクサーであった瀬島龍三伊藤忠元会長)の娘婿で側近でもあった。というと伊藤忠と関係のある人にはO氏が誰だかわかってしまうが(笑)
 
瀬島龍三アメリカとソ連の二重スパイの役割を果たし、戦後褒賞で伊藤忠の会長のポストを与えられたと思われる。白洲次郎が同じくアメリカのスパイ吉田茂の使いっぱしりをして戦後褒賞で東北電力の会長となったのと同じだ。
 
それで瀬島龍三の側近で娘婿で且つ伊藤忠代表取締役であったO氏はかなりの裏の事実を把握しているわけだ。おれはこのじーさん(O氏)があまり好きじゃないが(Oさんごめんなさい(笑))、この日は珍しく意見が一致した。
 
フミ「戦後A級戦犯だった岸信介(後に首相)、笹川良一(後に右翼のドン)、児玉誉士夫(後に暴力団のドン)はアメリカGHQに魂を売った裏切り者だと思います。」
 
O氏「フミヤスさんもそう思うかね? わしも同じ意見だ。」
 
X氏「まあ、そういう面もあるが、岸さんたちがアメリカの子分になったふりをして日本を守ったから日本の戦後の発展があった、という面もある。」
 
X氏は国際ユダヤ資本に関わる仕事をしているので、国際ユダヤアメリカ白人エスタブリッシュメント自民党保守本流(岸さんの流れを含む)寄りだ。

フミ「たしかに。・・・それでもっと言えば吉田茂山本五十六はもともとアメリカのスパイだったと考えます。」
 
O氏「フミヤスさんもそう思うかね!? じつはわしも同じ意見だ!」
 
X氏「ふ~む・・・。」
 
 
・・・・・・・・・
 
 
こうして日本人は戦争に引きずり込まれた。
 
全世界の資本や土地や石油や金のほとんどを握り、強大な力を持つ世界の国際ユダヤ商人と白人エスタブリッシュメントの総勢力 対 日本人の戦いである。
 
そして彼らの支配下にある「アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、オランダ、中国の連合軍」対「日本」の戦いである。
 
 
 
このブログは日本人の大和魂の愛の真実について書こうとしているわけだが、その愛の真実について語るためには、いましばらく戦争の事実を見極めなければならない。もう少し戦争の話にお付き合いください。
 
 

 

 

 

勝てる戦い・大東亜戦争を葬り去るスパイたち


 
それで、第二弾。
 
さらにアメリカは、イギリスやオランダ(特にオランダ領インドネシア)や中国などと結託して日本を経済封鎖し、とくに石油を禁輸して日本人を追い詰め、さらに次々に無理難題を押し付けた。

日本は譲歩を重ね、忍耐強く交渉を続けるが、米ルーズベルト大統領の目的は日本を戦争に引きずり込んで壊滅させることだから、日本がいくら譲歩しても意味がない。ルーズベルトはますます不可能な要求を突きつける。
 
そしてついに最後通牒ハルノートを日本に突きつけ、日本の連合艦隊にハワイの真珠湾を攻撃させたのである。
 

 
しかし大和魂日本航空隊は、司令官がアメリカのスパイであっても、世界最強である。日露戦争の時の大和魂の日本軍と同じだ。真珠湾攻撃で大戦果を挙げてしまう。
 
それでスパイ山本五十六はあわてて日本海軍軍令部の「上陸してハワイを前線基地とせよ」という戦略を無視し、ハワイのアメリカ軍の給油タンクや設備なども攻撃せずに温存させ、急ぎ日本海軍全艦隊を退却させてしまった。
 
もしこのとき軍令部の指令通りハワイを占拠し、ハワイのカラカウア王朝を復活させたならハワイは日本軍の強力な前線基地となり、且つ、事前にハワイを脱出していた空母エンタープライズレキシントンを追尾攻撃したならアメリカの太平洋艦隊はほぼ全滅したのである。(米空母サラトガはサンディエゴで整備中だった。)
 
そして圧倒的に優勢であった日本軍をハワイに集結させてアメリカ本土攻撃の姿勢を見せたならば、太平洋艦隊が全滅したアメリカ国民はパニックに襲われ、アメリカ西半分の住民は東部へと逃亡して難民と化し、アメリカ議会は衆議一決してユダヤの手先ルーズベルトを非難して日本に講和を乞い、そこで太平洋戦争は終結していたはずなのだ。
 
 
 
戦後、アメリカのインチキ教育に洗脳されて「信じられない」という人も多いと思うが、1941年当時、日米の軍事力の差は次のように日本が圧倒的に優勢であった。
 
日本艦隊
・空母     10艦
・戦艦     10艦
巡洋艦    18艦
軽巡洋艦  17艦
駆逐艦   111艦
・潜水艦    64艦
 
アメリカ太平洋艦隊
・空母      3艦(もし真珠湾の直後に追撃していたら、うち2艦が撃沈したはずだ)
・戦艦      9艦(うち5艦が真珠湾ですでに撃沈)
巡洋艦   12艦
軽巡洋艦   9艦(うち1艦が真珠湾ですでに撃沈)
駆逐艦   67艦(うち3艦が真珠湾ですでに撃沈)
・潜水艦   27艦
 
しかも日本艦隊は世界トップの技術を誇る最新鋭の大型艦揃いである。軍令部の指令通りに遂行したらアメリカ太平洋艦隊は本当に全滅し、太平洋戦争は終結したのである。
 
もちろんアメリカにはほぼ同数の大西洋艦隊があったが、アメリカは日本と同時にドイツ・イタリアにも宣戦布告していて大西洋の手を抜くわけにはいかない。それに、仮にアメリカ大西洋艦隊のすべてを太平洋に回したとしても上記の表のとおり日本艦隊の戦力には及ばなかったのである。
 
 
 
なお、ハワイのカラカウア国王は1881年、来日して明治天皇に謁見し、カイウラニ王女と山階宮定麿王との縁談、および日本とハワイとの連邦化を提案している。しかし当時日本はまだ明治維新から14年しか経っておらず、アメリカとの対立を避けるため親書をもって丁重に断るしかなかった。
 
その後、ハワイはカラカウア国王の心痛通りアメリカの白人エスタブリッシュメントによって土地を奪われ続け、ハワイ島民はヤツらのプランテーションの奴隷となっていった。そしてアメリカによってハワイ王朝が滅ぼされ、アメリカ領に編入されたのは1889年、じつに真珠湾攻撃のわずか50年前である。ハワイ王朝が廃絶されたとき一斉に号泣したハワイ島民はまだ多くが健在であり、王朝廃絶後も王室はハワイ島民から敬愛されていた。
 
日本軍がそのままハワイ島に上陸し、カラカウア王朝を再興して土地を白人から島民に取り戻したら、全島挙げて日本の強力な前線基地となったことは間違いない。事実、すでに日本領となっていたパラオはじめ南洋諸島も絶対的な親日であり、日本に全面協力していたのである。(パラオなど南洋諸島は現在も絶対的な親日である。また旧ハワイ王室は現在もハワイ島民から敬愛されている)
 
 
 
この後、アメリカ軍とスパイ山本五十六との連係プレーによって圧倒的に強力な日本艦隊は無駄に分散させられ、あるいは無駄に待機を命じられ、次々に劣勢なアメリカ艦隊によって個別に撃沈されていく。
 
ミッドウェイ海戦などは、日本艦隊は最新鋭の空母を含む空母6艦、世界最大にして最新鋭である戦艦大和を含む戦艦9艦を擁していたが、アメリカは旧型の空母3艦に、戦艦はゼロであった。どうやっても誰がやっても日本が勝つ戦いであった。
 
にも拘わらず、スパイ山本は空母を護衛すべき戦艦群を主力空母部隊のはるか後方300海里に押し留め(山本もその後方にいた)、日本の主力空母4艦をアメリカ全艦隊・アメリカ空母の全戦闘機・ミッドウェイ島の全戦闘機から総攻撃される位置に丸裸で差し出すという信じられない芸当をやってのけた。
 
その結果、日本の主力空母4艦を全艦撃沈させ、優秀な乗組員数千人と、一機で数十機を撃墜するA級ライセンスの精鋭パイロット300名を即死させたのである。
 

スパイ山本はアメリカの軍需生産が整う1943年までの1年半の間、同じように日本艦隊を抹殺し続け、日本艦隊が見る影もなくなり、反対にアメリカの軍需生産がフル稼働を始めると、またたくまに戦死したという体裁をとって姿を消したのである。
 
 
 
しかし!
 
ここからが重要である。

 

 

 

 

世界の人々を独立に導く日本人兵士たち


 
司令官がアホでもスパイでも、大和魂に燃えた日本兵士は圧倒的に優秀であった。圧倒的に力があった。
 
アジアの国々は大和魂の日本人兵士に指導され、歓喜に満ち、一致協力して、次々に欧米列強から独立を達成していくのである。

 

日本人兵士に指導され、国際ユダヤ商人と白人エスタブリッシュメントを次々に追放し、資本や土地や鉱山などの国富と愛と平安を取り戻していったのである。
 
ベトナムカンボジアラオス、フィリピン、マレーシア、シンガポールインドネシア、タイ、ビルマミャンマー)、インドなどが次々に日本に続いていった。
 
 
 
今回はインドネシアを取り上げてその軌跡を追いたい。
 
インドネシアでは、なんと人口わずか0.5%のオランダ人がインドネシアの全生産額の65%を独占するという凄まじく酷い収奪が続いていたのだ。
 
インドネシア人はオランダ人に騙されて土地を奪われ、極貧に陥り、オランダ人のプランテーションとなった土地で死ぬまで奴隷労働をさせられた。反抗する者は即座に皆殺しにされた。子供のころからの重労働と貧困で教育も奪われ、字も読めなくなっていったのである。
 
 
 
インドネシアの歴史家サヌシ・パネが言う。「1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人でも西洋をうち負かすことができる、強くなれるという信念を持たせてくれた。それ以降、インドネシア人は日本人にいっそうの注目を注いでいたのです。」
 
そして重労働の疲弊と極貧の中で、独立と解放を願う民衆の間には「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」という信仰と予言が生まれた。
 
 
 
以下、伊勢雅臣さんの話を引用したい。
 
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率いる日本軍第16軍は、総兵力5万5千をもってジャワ島上陸を敢行した。
 
攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか10日後には、オランダ軍は全面降伏した。現地インドネシア人が全力でオランダ軍のバリケードや砦を撤去し、日本軍に物資を供給し、その進撃を助けたからだ。
 
今村中将はインドネシアの人々を激励した。
「独立というものは、与えられるものではなく、自ら戦い取るしかない。インドネシアの人々が独立を戦い取ることのできる実力を養ってあげるのが、われわれの仕事である。」
 
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千人もの将校、兵士を育成した。これらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
 
 
 
インドネシア共和国(1950~)初代首相モハマッド・ナチールさんは次のように語っている。
 
・・・・・・・・・
 
大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思う。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦っただろう。大東亜戦争とはそういう戦いだった。
 
私は、当初、日本軍はオランダ政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれないと疑っていた。しかし日本軍は予想もしなかった事を次々と始めた。
 
第一に、幽閉されていた独立運動の指導者スカルノやハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけてくれた。
 
第二に、イスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者たちが初めて直接話をできるようにしてくれた。
 
第三に、インドネシアの教育に力を入れてくれた。これもオランダの政策とまったく違う。オランダは長い間愚民化政策を採ってきた。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれないからだ。
 
ところが日本軍は、やって来るとさっそく教育に力を入れ始めた。学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校を作ってくれた。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで多くの子供たちが学校に通えるようになったのだ。
 
さらに日本軍は行政機構への現地人登用を進めてくれた。私はバンドン市教育部長に任命され、権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだ。
 
私はインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。日本軍はこれらのことをみな応援してくれたのだ。
 
半年ほどもすると、バンドン市が属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平さんが赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタ総領事を務め、インドネシア人とは関係の深い外交官だった。
 
姉歯さんはよく私や市の有力者を集めて日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。「日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することだ。日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるようになる。私はみなさんの中から首相が出ることを期待している」と。
 
そしてそう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまう私たちインドネシア人を注意した。姉歯さんは6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。
 
姉歯さん曰く「インドネシアの人たちは独立、独立と叫んでいるが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ独立国としてやっていけない。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない」。

 

私は恥ずかしい思いをすると共に、姉歯さんの考え方に心から共鳴した。
 


・・・・・・・・・
 
 
 
もう一人、独立の英雄ズルキフリ・ルビスさんの言葉を聞こう。
 
・・・・・・・・・
 
オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍だった。
 
日本がインドネシアにもたらしたものは多いが、最も素晴らしかったのは義勇軍の創設と訓練です。それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となった。
 
もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国はオランダからの独立にらさらに30年もかかったのだ。
 
1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきた。町が急に慌ただしくなった。それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っていたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていた。
 
しかし、数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまったのである。

 

ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまった。インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町の支配者だったオランダ人たちも逃亡した。
 
 
 
それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じた。大人も子供も歓喜し、興奮し、感動した。

 

やがて日本軍が町や村へ来るとインドネシア人は熱狂して大歓迎した。インドネシアでこれほど歓迎された外国人はこれまでなかったでしょう。
 
そしてジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で同じ色の肌をしているので、さらにびっくりした。
 
 
 
日本軍による教育は画期的なものだ。まずインドネシア人に愛国心を育てた。次に死を恐れぬ精神を植え付けた。さらに向上心なども涵養した。
 
ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、インドネシアの青年に軍事訓練をするから希望者は集まれというビラが貼り出された。私は「独立のためには自らの軍隊を持たねばならない」と考えていたので、絶好の機会だと思ってすぐ応募した。


 
 
さらに上級の日本青年道場には、インドネシア各地から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。「アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。しかし(オランダの支配のせいで)インドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れてしまい、いますぐ独立はできないだろう。日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい」。
 
私たちの間には緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになった。
 

 


青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。
 
実地訓練は、日本の教官が自ら率先してやってみせてくれた。自営農場の農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。訓練生たちは農作業の経験もなかったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感が生まれていった。
 
ある日、午前中の野外訓練が終わったとき、インドネシア人の幹部候補生がたるんでいたため銃を持って立っているように命令された。炎天下で直立不動というのは大変な罰だった。そのとき中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、幹部候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。
 
私たちはそれをずっと見ていた。すばらしいことだと思った。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいなかった。このことはインドネシアの若者全員が知るところとなり、全員が感動したのです。
 
土屋中隊長はまだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていなかったが、常に私たちのことを考えていた。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると「いまはインドネシアが独立したとき中心になる人材を育成しているのだ」といって私たちを励ましてくれた。
 
同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長から深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会ったということだ。
 
・・・・・・・・・
 
 
 
日本軍が降伏した1945年8月15日の2日後、17日、スカルノとハッタは すかさず独立宣言を行う。18日にはインドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。

しかしイギリスとオランダは植民地の復活を狙い、降伏した日本軍に対して、「われわれ連合軍が進駐し交代を命ずるまで、日本軍は現状を維持し、暴動を鎮圧せよ」と命令した。
 
さらに日本軍に「原住民の集会を禁止し、原住民の武器の携帯や民族旗の掲揚を取り締まれ。このためには兵器を使用してもよい」との命令を下す。
 
降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのである。
 
 
 
一方、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるため、何としても日本軍が保有している武器が必要であった。インドネシアの人々は必死に日本軍に支援を訴えた。
 
中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可をオランダから得るや、それを拡大解釈し、トラック何台分もの最新鋭の武器をチレボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシアの人々はこれをそっくり手に入れた。
 
このようにして、インドネシアの人々に小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲多数などジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡された。
 
 
 
そしていよいよオランダ軍(黒幕はイギリス軍)がインドネシアを再植民地化するために攻め寄せてきた。
 
古閑正義中尉はインドネシア人を見捨てて帰国する気持ちになれず、同じ部隊の少尉4名とともにインドネシア独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って指揮をとった。
 
こうして1000人以上の日本人兵士が自ら軍籍を離脱して、インドネシア独立軍に身を投じたのである。
 
 
 
オランダとの独立戦争は1949年12月まで4年5ヶ月も続いた。インドネシア独立軍は兵員こそ200万人もいたが、主な武器は5万人の日本軍が使っていた武器のみである。
 
オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、インドネシア人は80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者を出したと言われる。
 
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会も撤兵勧告を行った。全世界の非難に押されてついにオランダはインドネシアの再植民地化を諦めたのである。
 
このインドネシア独立戦争インドネシア人と共に戦い、戦死した日本人兵士は400人を数える。
 
 
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世界中の人々から感謝されている日本人
 
 
平成7年5月29日、東京で戦後50年を記念して「アジア共生の祭典」が開かれた。
 
ちょうど独立50周年を迎えたインドネシアからは、スハルト大統領特使として、元駐日大使サイデマン氏が参列した。
 
サイデマン大使は1万人の参列者に、


「私の国インドネシアでは、多くの日本の青年たちがインドネシアのために一緒に戦ってくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日、このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。」
 

 


同じころ、インドネシア本国で行われた独立50周年記念の祭典において、

 

スハルト大統領は存命の残留日本人兵士69名を大統領官邸に招いて、深く感謝し、厚く礼を述べたのである。
 
 
 
余談だが、インドの独立50周年を記念して開催された「インドの夕べ」においても、インド代表の最高裁弁護士ラケッシュ・デヴィーディ氏が「インド独立のために日本人が共に血を流してくれたことを決して忘れません」と、語っている。
 

 


日本国そのものは国際ユダヤが支配する欧米列強とスパイによってズタズタに破壊され、戦後(現在に至るまで)アメリカの支配下に置かれてしまったが、
 
インドネシアだけでなく、インドも、ベトナムも、カンボジアラオス、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ビルマミャンマー)などもみな同じく大和魂の日本人によって指導され、日本人と共に戦って、独立を勝ち取ったのである。